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自己紹介③ゲームと映画の融合は異次元レベルの挑戦!深作監督と『クロックタワー3』を振り返る

こんにちは。香港仕込みのほっこり系陰陽五行マスター・ゆみたんです!

自己紹介第3回目の今日は「30代になったゆみたんがゲームの世界と映画の世界のはざまで崖っぷちに立たされるの巻」です。故・深作欣二監督と『クロックタワー3』の思い出

いや~、もう20年近く前のことですが、思い出すと今でも胃がキュッとして胸が熱くなります。

これまでの自己紹介はこちらからどうぞ↓

①演劇オタク少女が大学で中国語を学びゲーム開発者になるまで

②初めての海外生活はアメリカ!アメリカンドリームなゲーム会社で共同開発

『クロックタワー3』深作欣二監督との出会い

アメリカ駐在から戻った頃、サンソフトではカプコンとの一大プロジェクト『クロックタワー3』が始動していました。

話題作『バトル・ロワイアル』のヒット後、新たな挑戦としてゲームの仕事を選んだ深作監督を迎え、映画・テレビ業界、音楽業界、CG業界から早々たるメンバーが集結。

企画はカプコン、シナリオはフラグシップ、CGムービーはロボットが担当し、ゲーム内のグラフィックとプログラムがサンソフトの担当です。深作監督が演出するイベントムービーの制作も任されていました。

帰国後特に次のプロジェクトが決まっていなかったゆみたん。最初は端から眺めているだけでしたが、いよいよ深作監督の演出でモーションキャプチャー撮影が始まるというある日、上司の清水さんに告げられました。

「撮影に立ち会って監督の指示を逐一記録する係をやってくれないか?」

うわ~!おもしろそう!!

好奇心と行動力だけは人一倍のゆみたんです。またもや二つ返事で飛びつきました。

実は想定外のビッグプロジェクトとなることがすでにわかっていて、「メンタルが強そうだから」というだけの理由で抜擢されたのでした。

撮影前の打ち合わせで初めてお目にかかった深作監督は、スーツ姿で手巻きタバコを手にしたダンディーな老紳士。時折見せる眼鏡の奥の眼光の鋭さが印象的でした。

その後しばらく監督には『お嬢』と呼ばれることに。後から気づいたのですが、名前が憶えられるまで女性はみんな『お嬢』になるのです。

映画とゲームが現場で大激突!四面楚歌の大ピンチ

ほどなくして東映大泉撮影所の特設スタジオで撮影がスタート。映画の手法でカット毎に映画用カメラで撮影しながらモーションキャプチャーを同時撮りするという前代未聞の挑戦です。

貴重なメイキング映像がニコニコ動画にUPされてました!困難を極めた闘いの記録をぜひご覧ください。端々でチラチラと私の姿も映ってます。

クロックタワー3 メイキング映像 Making of CLOCK TOWER 3

『深夜作業組』の名に恥じない徹夜の撮影も幾度かあり、気がつけば3週間の予定が3か月に!

語りつくせないほど中身の濃い3か月でしたが、何より大変だったのは映画づくりとゲームづくりの違いからくる衝突でした。

アメリカで異文化交流は経験済みとはいえ、同じ日本語を話していてもまるで異次元の世界!

主人公アリッサがあるアイテムを手にしたところを撮っていた時のことです。ゲーム内でプレイヤーがそのアイテムをクリックした瞬間にパッとカメラが切り替わるように再生してくれと監督に言われました。

ムービーを読み込む際の「Now Loading」の黒い画面が出ないようにしてくれという要望です。

それは技術的にどうしてもできません。CDからデータをロードする時に何秒間か時間がかかってしまいます」

ゲーム側の仕様を伝えるのは私の役目。できないことはできないと言わなければなりません。

「どうしてだ?ここですぐに切り替わらないと芝居がつながらないだろう」と監督。現場にビリビリとした緊張感がみなぎります。

周りにいたのはカメラ、照明、音声、大道具、小道具など映画のスタッフさんたちです。

「この小娘なんで監督に口答えしてるんだ?監督がやれと言ったことはやれ!」と言われているようで、みんなの視線が痛いほど突き刺ささりました。

まさに四面楚歌!絶体絶命のピンチです!!

プログラマーに電話して確認しても、やっぱりロード画面をなくすことはできないとのこと。

「どうやってもゼロにすることはできないけれど、少しでも短くできるように努力します

私が断固として折れないので、これ以上話しても埒が明かないとやっと撮影が再開されました。

針のむしろとはまさにこのこと!映画界の巨匠に一人で立ち向かわなければならなかったわけで。今思い返しても冷や汗もの…

この時に比べたら大概のことは耐えられると思えるぐらいです。

情けなくてトイレの中で大号泣

この時は泣いて逃げ出すこともなく、なんとか持ちこたえたゆみたんでしたが、一度だけ泣いたことがあります。

撮影も後半に差し掛かり暑くなってきた頃。暑がりの私は扇子を手放せなくなっていました。現場ではリハーサルで監督とカメラマンがカメラワークを綿密に打ち合わせします。タイムキーパーさんと一緒に私も監督についてまわって、細かい指示を記録していました。

そんなある日、監督がそっと私を手招きして、誰にも聞こえない声で優しく諭すように言ったのです。

「いいか、自分の席にいる時はいいけれど、撮影エリアに入る時は扇子を置いていきなさい。重い機材を抱えて汗だくで動き回っているカメラマンさんがいるんだからな

あー!そんなことにも気づかないなんて、私はなんてバカなんだ!

「すみません、これから気をつけます」と答えるのがやっとでした。

涙がこぼれそうになるのを我慢して、トイレに駆け込み大号泣。自分の未熟さ、至らなさ、気遣いのなさが恥ずかしく、ただただ情けなく...

周りから崇められ恐れられ神様のように君臨している監督が、実は誰よりも気配りの人だった!だからこそ自分のこだわりで現場をどんなに振り回しても、みんながついてくるんだ。

決して妥協しない仕事への取組みや、人として大切な気配りなど、本当にたくさんのことを教えていただきました。

監督とのほっこりエピソード

撮影の合間に監督は、その辺にあった竹刀や木の棒でたまにゴルフの練習をしていました。そんな時、床に座っていた私にわざと軽くぶつけて、「お?そんなところにいたのか」とニヤリ。

突然、私の太い二の腕を掴み、「ブロイラーだな」と一言つぶやいてニヤリ。

「ワルツは踊れるか?」と言って、私の手を取ってワルツのステップを教えてくれたこと。

打ち上げで熱海の温泉に行く時、駅からの送迎バスに乗り間違えてあやうく別の旅館に行きそうになっていた私に、「これだからのんきな人は違うよ」と笑った監督。

あの時の会話は今も脳裏に焼き付いています。

「お前さんは長生きするぞ。100歳まで生きる」

「監督こそ長生きして、これからもいっぱい映画を撮ってくださいね」

「俺はもう長くないから」

笑顔でそう言った監督でしたが、まさか本当に1年後にガンで亡くなってしまうとは?!夢にも思っていなかった私です。

今でも監督のことは節々で思い出します。

あれからほぼ20年、ちょっとは私も大人になれたかな?天国の監督はどう思っているんだろう?

100歳まで生きるとして、あと半世紀はかかるけど、あの世に行ったら監督に直接聞いてみたいです。

人生には、ほんの一瞬の関わりでも一生残る深い何かを与えてくれる人がいるものですね。

★★★

【限界突破したい方への一言アドバイス】

若い頃の苦労は成長への糧となります。結果はどうあれ真剣に取り組んだことは絶対無駄にはなりません。失敗を恐れて無難に生きるより、時には自分を窮地に追い込んで汗と涙をいっぱい流しましょう。

★★★

この後の展開はというと、中国進出ブームに乗っていよいよ上海に旅立つゆみたんです!「自己紹介④一番輝いていた頃の上海で様々な仕事を経験!奇跡的に上海万博の仕事が決まるまで」をお待ちくださいね。

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