My Profile#9 心身削って捧げた4年弱〜キャリア2:水戸ホーリーホック

ワールドカップのボランティア体験を経て、いざサッカー界で仕事を!と思っていたが、そうすぐには始まらず、というのも、私がボランティアを終えたのは6月上旬、ワールドカップ自体は6月末まで続いていたため、サッカー関係者はそれこそ一生に一度のピークを迎えていた。

そんな中で、鹿島アントラーズの方には履歴書を渡したりしてみたが、さすがにすぐ入れる状況ではないだろうと思い、あ!もっと近くにJリーグチームがあった!と思い立ち、J2リーグに所属している「水戸ホーリーホック」の情報を漁り始める。

資金も人材も少ない中で頑張っているこのクラブは、試合運営はもちろんのこと、フロントスタッフが行う業務も「ボランティア」を募集していた。もう何もしていなかった私にとって、これはサッカー界のお仕事を経験できるチャンス!と思い、クラブの門を叩くことになる。

当時の役員さんとお話をさせていただき、サッカーに対する熱い想いを語っていたら、急に社長のところに呼ばれ、「社員にならないか?」と突然言われる。

ボランティアで無償で仕事をする覚悟だった私にとって、「今はこれしか出せないけど」と言われながらも、報酬がいただけるとはありがたいことで、すぐ「是非!」とお返事をした(→してしまった。。)。

どうやら欠員が出ていたところらしく、ワールドカップ開催で中断していたリーグ戦の再開に向けて、いろいろと企画が進んでいたところであった。

という流れでいざ社員としての業務がスタートする。初めは「営業」ポジションであったところ、それまで長年勤めていた当時の「試合運営担当」さんが急に上司とケンカして!?辞めることになってしまい、急きょイベント業務なども行ってきた(というかビッグサイトでいろんなイベントを見てきた)私が運営担当を担うことになった。。

その数日後には「会議があるからJリーグ(東京)へ行ってきて!」となり、全国各クラブのほとんど男性が担う運営担当者会議へ恐る恐る顔を出し、そのまた数日後にはホームゲーム運営(すべてを仕切る担当者!)としてデビューすることになった。あまりに早い展開で、初めての試合は訳が分からないまま終わっていった。

毎試合、目まぐるしく過ぎていき、その間にさまざまな準備や企画や調整や協力要請など、休みなく毎日深夜まで働き、週末は試合かイベントの対応に追われ、食事も睡眠時間もままならないまま時は過ぎていった。2シーズンを終えたところで、クラブの花形とも言われる広報担当へとメイン業務が変わり(こちらは女性が多い)全体のフォローもしながら引き続き業務に塗れる日々を送っていく。


「サッカー界で働きたい」という私の願いは、あっという間に叶っていた。全国の各チームの方とも繋がり、選手たちをサポートし、地域とつないでいく、、まさに充実していた。。が!これは本当にうわべの見え方であって、実際は本当に大変だった。まさに心身も貯蓄も削って身を捧げた期間だった。(「今はこれしか、、」の報酬も変わらないままだった。。)

あえて詳しい内情は伏せておくが、よく体が壊れなかったなと思うくらい、身も心も麻痺していた。(後にお世話になる整体師さんに「よく鬱にならなかったね」と体を診て言われた)

シーズンがスタートしたら走り続けなければならない、というのは分かっていたので、4シーズン目を迎えようとする前に、「あ、さすがにもう無理だ!」という閃きが起こり、その翌日には退職する旨を告げていた。「引き継ぎのために開幕までは見届けますが、そこまでで。。」

後のことは何も考えていなかった。とにかくこのサイクルから抜けなければ。。という身体からの悲鳴が届いたからこその決断だった。

念願の仕事だったために、とても充実していたし、やりがいもあったし、全国や地域との関係性も深まっていった。しかし、一旦身を引かなければ、自分を守ることができなかった。

たくさんの経験をさせていただいたし、多くの人脈を築かせていただき、今でもつながるその御縁には本当に感謝している。クラブ運営のほとんどすべてを体験できたので、私にとっては本当に貴重な期間でもあった。

それくらいがむしゃらに没頭できたことが何よりも財産になった。

ガムシャラ過ぎてうまく事が運ばなかったこともたくさんある。その実体験がのちの学びへと繋がっていくこととなる。

忘れもしない2006年の開幕戦をスタジアムの外から眺め、クラブスタッフとしての幕は閉じていった。

https://note.com/orie_plusgreen/m/md19be76524d4

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