今思い返せば、あれは被災だった

いつものように、バイト先で後片付けをしていた時、急に地面が揺れた。

熊本はもともと地震が多く(今振り返ると多かったが、あの時はこんなもんだと思っていた)地面が揺れることは度々あった。

だから、これもその一つだと思ったが違った。

立っていられないほど、一瞬でこれはまずいと悟るほどの揺れ。

調理場の料理人がだっと外に駆け出していくのを見て、本能的に外に出た。足元は砂利で、目の前には一緒にバイトに入っていた母と同い年くらいの女性。

そんなに親密な仲ではなかったが、確か手を握り合って、揺れが収まるのを待った。

何が起こっているのかまったく分からなかったが、とんでもないことが起こったということだけは分かった。

揺れが収まって、互いに「大丈夫ですか!?」と声を掛け合った。動悸がして、涙が出ていたが、気丈に振る舞った。

一旦、中を確認するために調理場に戻ると、さっきまで自分が立っていた場所に瓶が割れて散乱していた。

それを見て、ぞっとした。もし、ここでしゃがみ込んでいたら、頭に瓶が落ちて死んでいたかもしれない…

いわゆる、九死に一生を得た瞬間だった。

そして、もう一つ。やっと帰れると思っていたのに、この割れた皿や瓶を片付けないといけないのか…という憂鬱を感じた。

だが、さすがに誰一人、片付けていけという人はいなかった。

皆、家族の安否が気になって仕方ないという様子で、片付けはせずに帰宅することになった。

バイト先は家から徒歩5分の距離にある。普段はバイト着から私服に着替えて帰るが、今日は一刻も早く帰りたかった。

荷物だけとって、バイト先を出た。

大きな揺れはなかったが、震度3~4程度の余震が続いていた。

さすがに家族は大丈夫だろうと思ったが、帰るまでは気が気でなかった。

確か走って帰った気がする。震える手で、家の鍵をとりだして、扉を開いた。

すると、母と姉がだっと走ってきた。そして、私の顔を見るなり、姉が号泣し始めた。

そんなに泣くことか…?と思ったが、相手からするとバイト先で死んでるかもしれないという不安があったのかもしれない。

私は笑いながら、「大丈夫だよ」と言った。

それからの記憶はあいまいだが、部屋は食器棚が倒れていたくらいで、後は特に変わった様子はなく、電気も通っていたはずだ。

バイト着から部屋着に着替える。

この間もずっと余震が続いていた。もしかしたら、家が潰れるかもという恐怖は常にあったが、だからといってどこにも行けないので、家にいた。

携帯も普通に使えて、大学の友達のグループラインで安否を確かめあった。どうやら電話は使えなかったようだが、ラインは通常通り使えて助かった。

徐々に全貌が見え始め、震度7の巨大地震が起きたことが分かった。(ここも曖昧。確か、テレビのニュースで見た気が…)

それから、布団を居間に持ち込み、家族全員で雑魚寝した。常に揺れて、全く寝れずに朝を迎えた。

次の日。

ようやく朝日が登る頃、余震が少なくなり、泥のように眠った。

起きると昼で、テレビではニュースが流れていた。チャンネルすべてが、熊本地震のことばかりだった。何かを食べながら、そのニュースを見て、改めて大きな地震に見舞われたことを理解した。

こうやって報道されることで、全体像が把握でき、自分の状況を理解できる。関係のない地域の方々には申し訳ないが、ずっと情報を更新してくれるテレビはなくてはならない存在だった。

そして、余震が少なくなったことと、電気もガスも水も通常通りに使えたので、これ以上ひどくなることはないだろうと思った。

それが間違いだと気づいたのは、深夜だった。

昼間に起きたこともあり、全く眠くなかった私と姉は12時まで起きていて、さあそろそろ風呂に入って寝るかという話をしていた。

実際、姉はお風呂に入るために浴室に向かい、私は居間で携帯をいじっていた。

その時、また揺れた。余震かと思ったが、揺れがどんどん強くなるのを感じて、これは違う!と思った瞬間、地面がシェイクされるようなとんでもない揺れを感じた。

瞬間的に、こたつの中に潜り込んだ。人間、命の危機を感じるとこんなに速く動けるのかと今なら思うが、その時は必死だった。

頭の中は「死ぬ死ぬ死ぬ」という言葉でいっぱいになった。

さすがに、2度目の大地震に家が耐えられるはずがない。圧死して死ぬ!と本気で思った。その時、はだしのゲンの地震のシーンが脳裏をよぎった。

やがて揺れが収まり、目を開いた。

周りは真っ暗で、何も見えなかった。携帯の電気をつけて、周りを照らした。特にこれといって変わりはない。

すぐに母が飛び起きてきて、姉も風呂場から出てきた。

姉は揺れた時、丁度お風呂に入ろうとしていて全裸だったらしく(今でこそ笑い話だが)何とか服だけ着ましたという状態だった。

懐中電灯を手に取り、外に出た。

アパートの住人がパジャマ姿で外に出ていた。一言二言、「揺れましたね」など言葉を交わした。

今まで一度も話したことがなかったのに、こういう時は人の顔を見るだけで安心した。

目の前の家の瓦が落ちて、地面に散乱していた。そこを車で逃げる家族が通っていく。皆、錯乱していた。

私は揺れる地面と、真っ暗になった家々、それから遠くが赤く光っている空を見て、今度こそ危険だと思った。

幸い家は潰れる事は無さそうだし、火の手も見えない。

だが、さすがに避難しようという話になって、近くの大学に向かった。姉も母もパニックを起こしているようだったので、自分がしっかりしなければと思った。

大学へ向かう道中、多くの人々が錯乱して、右往左往しているのを見た。足元にはガラスが散乱して、相変わらず遠くの空が赤い。

電気が消えた街は、パニックに満ちていた。

大学には続々と人が集まっていた。救援物資と思われる布団を受け取り、シートをひいて、芝の上に座った。

知り合いも見かけたが、正直自分たちの事で手いっぱいだった。

情報も錯乱し、友達が多い地域が燃えているという情報が入った。グループラインも全員が返信していない。

もしかしたら、誰かが今瓦礫の下に埋まっているかも…という恐怖が常にあった。だが、自分にはどうすることもできなかった。

4月の夜は寒い。家族で身を寄せ合って暖を取った。さすがに、こんなところで眠ることもできず、余震に身を震わせて、話もせず黙っていた。

段々と夜が明けて、空が白み始めた。

鳥が朝焼けの空を飛んでいる。朝日に雲が染まっていくのを見て、ようやく朝が来たと安堵した。しかし、すぐにどんっという地響きの音に身をすくませた。

今でもあの朝焼けの空はよく覚えている。これからの不安が入り混じった気持ちで見上げていた。

その後、支援物資のロールパンをもらって家に帰り、また泥のように眠った。そして、目が覚めて、たった6つのロールパンを家族3人で分け合いながら思った。

もしかしたら、これが最後の食事になるかもしれない、と。



それから、伯母の家に身を寄せ合い、水道局で飲み水をもらうために長蛇の列に並び、トイレの為に水を汲みに行き、さらに食べ物を得るためにスーパーの臨時開店の行列に並んだ。

さらに、まったくお風呂に入れなかったので、どこか空いている温泉は無いかと探し、車で1時間近くある温泉に行った。そこでもまた並び、少なくなったぬるいお湯で身体を洗えて、生き返る心地がしたことだけは覚えている。

正直、その頃の記憶は曖昧ではっきりしない。

期間は2~3日だった気もするし、1週間近く経っていた気がする。

その後、蛇口をひねると水が出ること、電気がつくことに感動したのは覚えている。

そうして、徐々に元の生活の戻っていった。

最近になって、ようやくあれは被災していたのか!と気づいた。家は壊れていないし、避難していた期間も短かったのもあって、まったく自覚していなかった。

津波があったわけでもない。原発が爆発したわけでもない。

でも、確かに私たちは被災していた。だが、実際に体験すると、生きることに必死で、自分が被災したと思わない。

4年前の出来事を久しぶりに思い出して、議事録的に書いてみたが、こんなに記憶が残っていないものかと愕然とした。

姉も覚えていないようで、あまりに強烈な体験は記憶に残りにくいのかもしれない。

今は熊本も大分復旧が進み、凸凹とした道も少なくなった。

崩れた熊本城も、少しずつ形が整ってきている。

最後の食事になると思ってロールパンを食べたが、そんなことはなかった。

今も生きてるし、これかも生きていく。

でも、最後の晩餐くらいは自分で決めたいものだ。

せめて、味気のないロールパン以外がいい。

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