― 第六話 メガネ、脱出劇 ―

「うぇ~、こりゃ臭い!」
 メガネの目の前に恐ろしい量のゴミが散らばっていた。
 そこは薄暗い廊下であった。
 ここを通り抜けないと先に進めない。仕方なくそこに足を踏み入れたメガネは、あまりの臭さに気が遠くなる思いだった。丸められたティッシュ、紙くず、弁当箱、布切れ、そして一番我慢できないのが生ゴミだった。米粒があちこちに散乱しており、何に由来するのか、茶色い汁があちこちに水溜りをつくっている。ヌルヌルするその水溜りに足を踏み入れなければならないたびにメガネの体中に鳥肌が立つ。メガネのくせに。
 そうして恐ろしい苦労の末、メガネがようやく通路の終わりにたどり着いたときだった。

「ここホント臭いっすねぇ。」
「あぁ。さっさとこのゴミ捨てて行こうぜ。・・・それにしても昨日の宴会、すごかったなぁ。メクロ様の裸踊り、お前、初めてだろ?」
「はい!俺、マジ感動っす。あ、いや、でも、メクロ様の裸踊りじゃなくて、アレの方っすけど・・・」
 とっさにメガネはゴミの間に体を潜め、ゴミと化した。

「あぁ、臭い臭い臭いっ!」
「もういいっすよ。もう充分くさいっすよ。・・・でもメクロ様っていっつもアレやるんっすか?なんか俺、ちょっとメクロ様の印象変わったかなぁ~って。」
「あぁ。・・・そのことについてはあんまり口にしない方が身のためだぞ。ま、俺もここ入って長いからよ、メクロ様が宴会するときゃ、ほぼ確実にアレやっちゃうこと知ってるからさ。その、・・・時々はメクロ様によ、『ちょっと抑えた方が・・・』って言っちまうんだけどよ・・・」
「へぇ~!マジっすかぁ!あ~っ!俺、分かっちゃいましたよ!分かっちゃいましたよ!」
 後輩らしき男が嬉しそうに言った。

「もしかしてぇ、田崎先輩ってメガフォルテの幹部、とか?とか?ぢゃないっすかぁ~!?いや、マジ、メガすごいっすね~!」
「ば、ばぁか、おまえっ、やめろよぉ~!まだそんなモンぢゃねぇよ!」
「あぁ!田崎先輩、今、『まだ』って言いましたよねぇ!メガかっこいいっすよぉ、ほんと!」
 楽しそうな二人だった。

「あ~っ!あれじゃねぇっすかね、あれっ!」
「な、何だよ?」
「もしメクロ様が日本獲ったら、田崎先輩、・・・ウダイジィンとかぁ~?」
「ばぁかっ!俺のは左向きだっつぅの!うははははははは。なに期待してんだよ。んなことあるわけねーだろ~。吉田ぁ!うはははははははは」
「そぉっすか~?いや、あり得ますって!俺、マジで田崎先輩のことソンケーしてんっすよ。」
「まぁ、もしもの話、あくまでも、もしもの話、な?もしも俺がよぉ、・・・ま、んなことぁ~あり得ねぇけどよぉ!えははははは」
 田崎先輩、体がくねった。

「もし万一俺が右大臣になったらよぉー。・・・俺、お前に市町村の一つ、上げちゃおーかなぁーっなんて、マジで考えてんだよっ!ひゃっはっはっはっは!俺も、そんだけお前のこと認めてるっていうかさ・・・」
「えぇー!まじっすか!?田崎さん、それチョーヤベーっすよ!チョーヤベーっすよ!」
「いや、だからよ、吉田ぁ。落ち着けって。例えばの話だよ。例えばっ!」
「俺、ほんと、田崎先輩に一生ついていくっすよ。・・・ホント俺、どんだけ田崎先輩のことソンケーしてるかって、先輩に伝えてぇーっすよ。青森にいる母ちゃんに聞いたら分かりますって!俺ホント、田崎先輩のことしか話してねぇっすから。すげぇ~イジンがいるって!」
「偉人って、死んでんじゃねぇか、それぢゃ!うはははははは!ま、さっさとこれ片付けて行こーぜ。」
「うぃ~っす!・・・あ、そういえばシュショーの暗殺ってあと三日あとっすよね?」
「ああ。」

「・・・」
「ん?どうした、吉田?」
「あの、俺ぇ、実は誰にも言えないことあっちゃったりしてるんっすよマジで・・・」
「なんだよ、水臭え。俺にだけは何でも相談しろって言ったろ?」
「田崎先輩・・・」
「あんだよぉ。」
「・・・あ、ぜってぇ~笑う!田崎先輩、ぜってぇ~笑うって!」
「ばか、俺がお前のこと笑ったことあるか?一つもねぇよ!お前のこと、俺・・・。だ、だからさっさと話せよっ!よけー照れんだろ!」
「えぇ~、マジ困るんですけどぉ~!」
「いいから、話せって!」
「ええ~っとぉ、・・・いや、マジ照れるんっすけどぉ~!」
「じゃあ、目ぇつむっていえよ!」
「あ!」
「なんだよ!」
「田崎先輩、今、エッチなこと考えてねぇっすよねぇ?」
「ば、ばかっ!ミソ汁にごすんじゃねぇよっ!」
「じゃあ言いますよぉっ、俺!」
「おう・・・」
「いや、マジ、とびそーなんですけど。」
「こいつぅ~!とんでみろよっ!俺によっ!」
「じゃ、言いますよ!」
「ああ。」

「・・・シュショーって誰っすか?」
「ひゃはははは!お前、何小出てんだよっ!シュショーっていや、日本のドンに決まってんだろ。」
「いや、あの、偉さは知ってるんっすよ。それで、・・・名前、なんていうんっすか?」
「・・・。・・・み、みなと」
「港っすか!」
「いや、み、みとべ・・・みたいな。」
「御堂だよ!」
 メガネが答えを口にしながら姿を現した。
「そう、それっ!御堂!・・・だ、誰だぁっ!」
 田崎が叫んだ。
「おぅ、だぁ~」

 もう一人の男、吉田はいきなりガニ股になると、この暑さだだというのにわざわざポケットに手を突っ込み、反り返ってメガネに近づいてきた。メガネの頭一つ分くらいは背が高い。そして、メガネから数センチの距離まで近づくと、その顔をメガネのヘソの辺りまで落とすと、そこから顔を上に持ち上げながら凄みを効かせてようやく残りを言い終えた。
「~れぇなんだよっ?おめーはよっ?」
「俺はメガネだ。」
「知らぁねぇ~よ!」
 そりゃそうだ。

「おい、お前、怪しいな。一緒に来い。」
 もう一方の男の方はちゃんと日本語を解するようだった。
「うーん。どうしよう。お前、ホントにエライのか?」
 メガネが田崎を真っ直ぐに見ながら言った。
「なっ、何言うんだよぉ~。突然よぉ~。」
 田崎が言った。その声にちょっと張りがある。
「あぁ~っ!田崎先輩、赤くなってるぅ~!」
 ― ポカッ ―
 とりあえず吉田の頭を殴ると、田崎はメガネに背を向けて言った。
「ま、まぁ、俺がメクロ様に口利いてやれるっちゃあ、やれる・・・な。おめぇ、入団希望者か?最近多いんだよな、裏口から入ってくるヤツ。おい、今度からちゃんと正面からこいよ。まぁ、今回は俺の顔に免じてやるからよ。ほれ、ついて来な。」
 田崎は身を翻すと指をクイックイッと動かして歩き出した。吉田が田崎の背を眩しそうに見つめながらそのすぐ後ろを歩き、メガネが一番後を歩いた。
 
 そして・・・

「で、お前はその男をぉ、縛りぃもせずに、こぉこに連れてきたぁ、と言ったぁ?」
 田崎、吉田、そしてメガネの三人は今、五人の男に囲まれていた。声を掛けたのはそのうちの一人、メルトモだった。

 ビルで見かけたあの小太りの男だけが椅子に腰掛けており、メルトモはそのすぐ脇に立っている。残りの三人は、床に直に座らされたメガネ達を囲むようにして直立不動だ。予想通り、部屋に入った瞬間から田崎と吉田は、まるで自分達自身が捕まった潜入者であるかのようにビクビクし、床に座らされた時も自然と土下座になり、小さくなって震えていた。

 (それにしても・・・)椅子に腰掛けた小太りの男を見てメガネは思った。(ほんと、サングラスの似合わない人だなぁ・・・)
 薄暗い部屋の中でサングラスをしている目的もよく分からないが、小太りの男のその小さな丸いサングラスは、そのメーカーでさえ自社のサングラスをその男に使用されるのを嫌がるであろう、と思われるほど似合っていない。

「なぁにぃ?!」
 椅子の男がメガネに向っていきなり大声を張り上げた。
「は?何も言ってないよ!」
「いいや。お前、今、サングラスのことで俺を・・・誉めた?」
「・・・誉めてない。で、あなたがメクロ?」
 メガネが言った。
「!」
 メクロが驚きのあまり、椅子から落ちそうになった。どうも、心臓は小さいらしい。
「ど、どぅして、それを?」
「だって、・・・アソウさんにそっくり。」
「あぁあああ!それ、ぜぇったい!ぜぇったい!ぜぇったぁいに、言ってはいけない言葉だったなぁ!聞きたくなかったなぁ!」
 怒ると顔が膨れるところまでがアソウと似ている。

 周りの男達の顔が青ざめた。
「ボ、ボォス!お、落ち着いたくさい!おいっ、タカ、マカ。こ、こいつらをはやく地下牢に連れて行くか?」
 メルトモが・・・尋ねた。
 タカ、そしてマカと呼ばれた、メルトモと同じように筋肉隆々の男達がメガネの腕に手を掛けた。

「田崎と吉田は明日死刑・・・」
 メクロが不機嫌にぼそっと言った。
「へ?」
 その瞬間、吉田はようやく見ることができた。
 秋田の晴れ渡った空を・・・

 (楽しかったべなぁ。おっかさん元気だべかなぁ~。東京、来なきゃよかったべなぁ~。やっぱりお米はアキタコマチが一番だぁ、ってよし子、言ってたよなぁ・・・)

 彼はその直後に気を失っていた。そして、気が付いたら田崎と一緒に地下牢にいたのだった。
「田崎先輩、ひどいべ、ひどいべ!」
 田崎に食って掛かろうとした吉田ははっと止まった。
「た、田崎先輩・・・」
 田崎は泣いていた。
「おい、吉田。俺、あの世行ってもお前を弟子にしてやるからな・・・」
「田崎先輩・・・」
 吉田も喉をつまらせた。と、その時。
「おい、おまえら。」
 地下牢の鉄製のドアの隙間からメガネが顔を覗かせた。
「おまえら助けてやる。その代わり俺の言うこと聞くか?」
「あぁっ!」
 田崎と吉田は涙にまみれたお互いの顔を見合わせた。

「助けてくんろ!」
「失せろ、ボケ!」

 二人の声が重なった。
「あ、そう。」
 あっさりそう言うと、メガネの顔が消えた。

「なぁにさ言うだか、このすっとこどぉっこいが!」
「なんだとぉっ!それが先輩に向かって言うセリフかっ!」
「こんなバカチンコ、先輩でも何でもないべ!このウスラハゲチン!」
「チンって二回つけたなっ、こいつっ!」
 大声で罵り合いながら一つになって転がり回る二人の頭を、いつの間にかその牢に入り込んだメガネがポカッと殴った。
「静かにしろよ!」

「あぁ、お兄さん、助けてくんろ!オラだけでええから助けてくんろ!」
 吉田がメガネの膝に縋った。
「お前、それでも男か!」
 田崎がまた叫んだ。
「だからうるさいって言ってるだろ!」
 ポカッ!
「よし、じゃ、お前は残れ。」
 メガネが田崎を指差して言った。
「えぇぇぇぇ~っ!」
 田崎の変わり身は早かった。
「すんませんでしたぁっ!俺も連れてってください!こいつよりは役に立ちます!」
「ほんと、あんたってひどは・・・」
「ま、とにかく俺、道を知らんからな。二人で案内しろよ。」
「で、どこに行きたいんっすか?」
 両手を擦りながら田崎が言った。蠅の動きである。

「そうだなぁ・・・。もう面倒だからメクロのとこ行ってさっさとアイツ、捕まえてこようか・・・。さっきの奴らなら三人くらいまでなら何とかなるだろ、お前達二人が一人を担当してくれたら・・・な。」
「え?」
「べ?」
 田崎と吉田の息がぴったり合った。
「それはやめた方がいいですよぉ」
「んだ、んだ。メクロ様は魔法使いだべっ!」
「は?魔法使い?」

「吉田の言うとおりなんですよ。ほんと、メクロ様にはどんな人間も歯が立たないんっす。」
「だからって、魔法ってことはないだろう・・・」
「いんや、あれは魔法だべ。田崎先輩も覚えてるべ、ひと月前の源次郎先輩のこと。」
「(ごくっ)あぁ、もちろんだ。」
「なんだ、その源次郎とか言うヤツは?」
「源次郎・・・、そう、バナナの大好きなヤツでした・・・」
 田崎が低い声で源次郎の好物の話から始めようとした。

「おい!時間がない、手早く説明しろ!」
 メガネがせかした。
「せっかちな人だなぁ~。分かりましたよ。まぁ、一言でいうと、国家公務員のスパイだった源次郎は、メクロ様に記憶を消されちゃったんです。」
「なに?」
「ほんと、ありゃびっくりしたべぇなぁ。源次郎先輩、まったく覚えてないどころか、赤ん坊みたいになっちまって・・・」
「そう言いながらお前、源次郎に自分のオッパイ吸わせようとしてたじゃねぇか。」
「い、いんや、そんなつもりじゃ・・・。だ、だって、あの、あまりにかわいらしかったから、つい・・・。な、なして、田崎先輩がそんなこと知ってるべか!?あんとき、あの部屋には俺と源次郎先輩しか居なかったのにっ!」
「ふふふ。壁に耳あり、障子に目あり・・・ってな。」

「しぃっ、静かにっ!」
 メガネが突然二人を黙らせた。
「ど、どうしたべか?」
 吉田が青い顔をして聞いた。
「今、女の声がした。」
「女?」
 田崎と吉田の声がまた重なった。
「あっ、田崎先輩!またあのババアでねぇか?」
「えっ?アレ、まだ生きてんのか?」
 田崎が目を見開いた。

「ババアって誰のことだ?」
「そうさねぇ、あれは去年の冬、初雪が初めて・・・」
「いや、いい。それでその女はどこに居る?」
 話し始めようとした田崎を遮ってメガネが言った。
「確か、この廊下の一番奥の部屋・・・ですたよね、田崎先輩?」
「あぁ。でもまさかまだ生きてるなんて・・・」
 田崎が薄気味悪そうに首をすくめた。
「よし。お前ら、ちょっとここで待ってろ。俺ちょっと行って見てくる。」

 メガネは妙な胸騒ぎを感じていた。
 この女の声、確かに聞き覚えがあるような、ないような・・・。
 メガネは牢を出ると、右手へと向った。

 相変わらず薄暗い廊下だったが、さっきのゴミ溜めに比べると多少かび臭いがまだ耐えられる臭いだった。

 (大体、・・・)メガネは廊下を歩きながら、もう何百回も呟いたセリフをまた心の中で言った。
 (あのヘリに乗らなきゃよかったんだ・・・)


(第七話に続く)

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