「エモい」について

 ちょっと前にtwitterで「エモい」に関する論争のようなものがありました。

 「エモいの多用は若者の語彙の貧困さとそれを促した現代教育の敗北」とか、反対には「古語での『をかし』がエモいに相当する。時の流れによって日本語も変化するのは当然」といった意見がある。前者については、若者論は書けば老人が買って読み、若者を小馬鹿にすることで楽しむための娯楽のような扱いをいつの時代もされているし、教育に至っては明治維新での教育改革や戦前、戦後とそれぞれの教育制度とそれを受け入れ文化を築いていく知識階級層の質と量は全く変わってくるので比較するのも不毛。

 しかし、筆者はアンチ・エモである。

何故か?

 そもそもとして、ほとんどの人が知っていることだと思うが、「エモい」とは、英語の"emotional"が基になっているとされている。そんな中、現在日本語を形成するにあたって様々な議論がある内に外国語、『横文字の濫用』が挙げられている。

いるよね〜!「エビデンス」とか、「レジュメ」とか使う人。それに対してモヤっとする人もいるはず。それで、筆者はなんでアンチ・エモなのかというと、こういった日本語の横文字化がどんどん浸透してしまうのではないかと思うからです。

 対の例として「をかし」を取り上げてみます。をかしの語源に定説はないけれど、「をこ」(烏滸→愚かしいという意味)の形容詞化とか、動詞「招(お)ぐ」(→呼び寄せる)の形容詞化なのでは?という説があります。招ぐという言葉の先には神霊などもニュアンスとして含まれているので、きっと未知のものを受け入れた!!なんだこれ!!というのが「をかし」なのだと思います。

 島国である日本の言葉は現在に至るまで朝鮮、高句麗、中国、アイヌなど様々な文化が融合されていますが、それは「形成」の段階であったと私は考えています。形成された言語ができることは、多言語の翻訳です。私たちが見ている海外ドラマの字幕は、直訳せずとも少し言い回しを変えることで元の言語のニュアンスを受け取ることができています。これは日本語がある程度形成された言語だということになります。しかし、ここで出てきたのが前述した「横文字」です。

 確かに、英語圏での文化とは大きな差異があるので、完璧にそれを日本語になおすことは難しいです。例えば「コミュニケーション」という言葉の意味は、会話だけで成り立つものではありません。対話が近いと思われますが、他者理解におけるコミュニケーションは人間の内側で行われているという話もあり、このように1つの器に当てはめるには難しい言葉です。

 話が長くなりました。ここで「エモい」が出てきます。

 現在の日本は鎖国しているわけではないので、こういった外国の言葉を日本で使う際、外国の言葉をそのまま概念として受け取ることは必要になります。しかし、日本語を今後また文化にあわせて創り出していく時に、横文字を受け入れすぎてしまうと日本語としてのベースが崩れてしまいます。筆者はこれを危惧しているのです。筆者は若者が活字離れしているとか思っていません。むしろインターネットによってオンラインで様々な記事、小説、文献を読むことができているはずです。しかし今後、もし後世の近代文学が読めないことになったら、日本語を話している我々はどのように自分のルーツを辿ればいいのでしょうか。日本は島国であり、他国による大規模な言語統制が行われなかった国です。これは恵まれています。

 エモいってなんでしょうか。筆者はあまり使わないので、その意味もよくわかってません。では、エモいは、何に置き換えられるのでしょうか。

 日本語はある程度形成された、と言いましたが、日本語を話す人が存在する限り完成はされません。「をかし」だって、未知のものを受け入れるための取り敢えずの言葉だったのではないかと筆者はかなり勝手に予想しています。英語もその基盤は違えど、美しく、たくさんの人に使われていることは事実です。

 もしかして、これがエモい?と今書きながら少し考えています。

 

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