不完全な問い掛け

私が求めているものはなんだろう?
今の私の存在危機を救うには何が必要で、私の周りの何を取り除けばいいいのか?
「人」はではなく、自分は確固とした探索者でいられるか?

この質問に「正しく」答えられる人はいるのだろう。
映画では有り得る現実を描く。本物っぽさか、又は求められる感情演じるマシンとしての俳優に共感させられ、監督の底に込めたメッセージを主観的に受け取る。
メッセージとは、唯一に発生しまた与えられる現実の複雑な構造のことかもしれないし、その現実の中で私たちの精神を支配し、彩りを射出するものとしてのみなす、感情の本質をほじくるものかもしれない。

感情の缶詰としての性格を持つ映画は、私たちに何を考えさせ、どのように我々に冒険者として出発する動機を与えるのか?

ただ映画を観ている。ただ画面に映し出される視覚媒体を通して自分の感情を持ってそれに臨んでいる。”it’s what it's“に過ぎないもの。私は「映画」はそれ以上の意味を持っているもののように思える。

生きるために社会にカネと時間と人格を売る今の現実の行先は?意味に次ぐ意味にコーティングされた世間は住みにくくないのか?生まれる前から自分抜きで決められたルールがある事に本当に納得できているのか?こんな事を問う前に冷酷にも提出物の締め切りの催促の電話が鳴る現実がある。そしてそんな“現実は冷たい”中でも、頬を火照させる、思いやりや愛の感情がそこにある。生きる動機を奪いながら、生きるようにハートを突き動かしてくるこんな歪んだ現実がある。

その現実をどんな態度でもって、何を信じて生きていけばいいのか?

映画は起こりうる、人の感情と身体とそれ自体を描く。起こりうるのではなく、描かれているものが知覚されうるもの。そこで我々が“見る”現実はmaybeであり、canでもありながら、mustである現象。タブーを卑下しながらも人情の美しさを訴えるもの。

ここまでの問いは全て自問させられるべきものである。経験を通して再生されるように秘められた感情や一連の思考を味わうことが求められる。
感情の缶詰としての映画のように。

いかに「幸福」を獲得し、「居場所」を見つけ、人生の最適化を図るか?
いかにこの心の「物足りなさ」を埋めながら、「欲しい製品」を手に入れ、自分を発見するか?
いかにして鏡の中の自分を満足させるか?

だっていつも何かが足りないんだ。注目か、愛か、信用か、お小遣いか。複雑すぎる世界にいつも注意をめぐらせることなんてできない。自分が何を伝えたいのかも分からなくなってくる。理想なんて本当にあるなら、ここに連れてきて欲しい。

何かを求めてるんだけど、何を求めているかも本当にわからない。

現実のしっぺ返しを恐れて部屋に籠る17歳の空元気を持った少年がスマホに書き込んでる。
原因と動機と行動をもってすれば現実も全てが分かる時代は今じゃない。

もう冷静な哲学者ではいられない。

すごくホットでセクシーでピュアで可愛げのあったりなかったりする男の子でありたい。

分からない。分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分から分からない分からない分からない分からない分からない。分かった

疲れた




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