見出し画像

【モンゴルのクラシック音楽〜開発コンサルが見たモンゴル文化〜】②クラシック音楽家との出会い

名称未設定のデザイン (9)

↑国立オペラ劇場の外観。戦後、日本のシベリア抑留者の方々が建設に携わった。

モンゴルの音楽というと、チェロに似た馬頭琴のソロ、楽団とか、一人の歌い手が同時に二つの旋律を発してハモらせるホーミーとかがよく知られている。私が初めてモンゴルに行く前は、それすらも知らなかったが、行って驚いたのは、国立のオペラ劇場があり、専属の指揮者、歌手、オーケストラ、合唱団、バレエ団が定期的に公演を行っているという事実であった。1995年当時の日本では、初台の新国立劇場がまだ建設中で、オペラ専用劇場は存在せず、二期会、藤原歌劇団などの大手オペラ団体ですら、東京文化会館などの劇場を借りて公演を行うのが常であった。歌手と合唱団はいるけれども、オーケストラはその都度在京のプロオケを雇って公演するという状態である。日本とモンゴルの経済水準における雲泥の差と、文化面におけるモンゴルの先進性のギャップが強い印象だった。

画像2

↑オペラ劇場のステージ

画像3

↑モンゴル音楽学校の生徒たち。小学生から高校生くらいの年齢の子供たちが通っている。後に音楽大学ができるまで、音楽の最高学府だった。

私自身は1993年に11年間勤めた大手コンサルタント会社から独立し、自分の会社を立ち上げて一人で開発コンサルテイングに携わって2年目という時期だった。私は幼少の頃ピアノを習い、その後合唱団などで音楽に関わってきており、人生の節目で何回か音楽の道への転身を考えたことがあった。結果的には、自分でも何故かはよくわからないが、音楽の道には進まずに、縁もありコンサルタントの仕事を続けていた。しかし、大手コンサルタント会社にいる以上、会社の仕事を優先せざるを得ず(当たり前だが…)、自分のスケジュールを自分で決められない状況に息苦しさを覚え、独立を決心。今やらないと一生後悔すると感じたのをよく覚えている。丁度、例のドーハの悲劇(アメリカサッカーワールドカッップの最終予選)の頃だった。1995年当時は、自分の時間を自由に配分できるようになり、在京のイタリア人の歌の先生に付いて声楽を勉強し始めて6年目の頃だった。

画像4

↑馬頭琴奏者。多分音楽学校の先生。

国立のオペラハウスがあるくらいだから、クラシック音楽の専門家も沢山いるに違いないと考え、仕事で頼んでいた通訳の人にピアニストを探してもらうようお願いした。それで、紹介してくれたのが、笑顔の素敵なトウンガラック先生だった。彼女は、市内にある音楽学校のピアノの先生をしていて、ソ連の影響の強かった時代に、当時はソ連の一部だったアルメニア共和国の首都エレバンでピアノを勉強したというお話だった。社会主義ソ連は、正の面、負の面を合わせて色々な遺産を残したが、文化面においては明らかに正の遺産を残したのだと納得したものである。早速、日本から持って行った楽譜をコピーし、合わせをお願いしようと準備を始めた。

画像5

↑後ろが筆者、その右前がトウンガラック先生

to be continued...


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?