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ある「まち」の話(vol.6)

このまちで生きていけるか

車の免許は早めに返納したい。
あそこもここも開業医が閉院していく。
タクシーが走っていない。
買い物するところがない。
通える学校がない。
私たちはこのまちで生きていけるのか。

これは一市民の意見かもしれないけれど

上に書いたのは、美容師さんとの会話のないようだ。
普段は、このまちを必死になって残そうとしている人たちと会うことが多いので、そういうものなのかな、このまちはこんな感じだけどこのまちを好きな人もたくさんいて、そうするべきなのかな、と思っていた。
でも、そんなこととは関係のない一人の生活者として話を聞いてみるとやっぱりそうだよね、という話の展開になることがある。
このまちの行く末を多かれ少なかれ心配しているのはここに暮らす大多数の人であって、結論をどう出すかは別だけど、現状を踏まえるとけっこうやばいと思っていることは共通している。

不安に向き合えているか

このまちの危険信号に大多数の人が気づいている。
このまちを何とかしようと足掻いている人はいい。
でも、不安で行く先が見えないけれど現状維持するしかない人たちの存在が見えているだろうか。
このまちを愛してやまない人たちの活動は頼もしいけど、どこか楽観的やすぎないか。
そんな夢物語でこのまちは本当にうまくいくのか。
どこか冷ややかな目で見られていることに気づかないふりをしていないか。

ここじゃなくてもいい

必ずしもここじゃなくてもいい人はけっこういるのではないか。
仕事があるから、家を建ててしまったから、とりあえず困ってないから、友人や知人がいるから。
最後に挙げた理由は、けっこう大事なのでこの土地に留まる理由にはなるのだけど、でもその友人や知人がいなくなったら?
ここじゃなくても仕事はあるかもしれないし、家を処分できれば、便利な土地はもっと他にいくらでもあるし、自然豊かな土地だって他にある。
もちろん、農業のようなその土地でないと成り立たない生業もあるので、ちょっと乱暴すぎる話かもしれないが、高度経済成長期以降の大都市近郊のしかもその辺縁の住宅団地をイメージしてもらえたらと思う。
ここにいるのは、ここにいたいからではなくて、ここから出られないからという人が圧倒的に多い気がする。
だから、何かここでいいんだと自分を納得させないといられないのではないか。

どう向き合う?

正直になるしかないと思う。
もう張りぼてをかぶるのはやめて、できないことはできないし、よそと比べてここに何かを求めることは無理だと。
けれど、ここにしかないものもあるというのならそれを実直に示すしかない。
そしてこれからどうしていくかを。
それらを示したうえでどう行動するかをこのまちの人に委ねるしかないのではないか。
果たしてそうする覚悟があるか。

このまちで生きていきたいか

このまちで暮らしている人が考えないといけないことは、このまちで生きていきたいか、かもしれない。
生きていけるかどうかを心配するのはちょっと他力本願だ。
できないことを求めることは不毛だから。
このまちで自分の意志として生きていきたいと思うならば、そこには責務も発生するのではないか。
このまちでなくてもいいのならば、何をどう選択するかは熟考しなければならない。
それでもこのまちにいることを選ぶのならば、やはりそこにはこのまちで生きるものとしての責務を果たさねばならないだろうし、このまち以外のところで生きていく自由も権利は誰にでもある。

これは特大ブーメラン

これはまさに私に突きつけられていること。
この問題も見て見ぬふりをしてきた。
傍観者のように、分かったふりをしていた。
まるで第三者のように。
でも、当事者なのは私なわけで。
ちょっと真剣に考える転機がやってきたかもしれないのだけど、この話の続きはまた今度。

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