
𝑳𝑶𝑽𝑬について私がいま思うことin201904
ここ最近よく𝑳𝑶𝑽𝑬、つまるところ愛って何だろうということを考える。その割に頭の中で考えるだけで言語化していないのでとりあえず書きなぐってみる。とりあえず取り留めもなく2トピック。
愛とは技術である
それまでは「愛」というのはほとんど雰囲気で使ってきた言葉だったが、今でははっきりと言語化することができた。以下のような定義が自分の中にストンと落ちている。
自らの意志で対象へ向き合い、互いの尊厳を認め配慮し、自分がどう思われようと相手の「幸福と成長」に責任をもつ態度
「愛する」というのは、この態度を実践する「技術」であり、誰もが簡単に浸る「感情」ではない。
「愛とは技術である」というのはYamottyさんの愛についての記事からの抜粋だ。そして『愛するということ』を著したフロムはこう言っている。
どうしたら愛することができるのか。 愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。
つまるところ私は自分の蓄積したあらゆる経験とそこから発生した思考と価値観からしか愛する技術は生まれないのではないかと解釈している。
愛し方には種類があって、程度があって、頻度があって、と全容を解明するのは難しいが変数はたくさんある気がする。また、愛されることに対して個人個人で心の琴線に触れる閾値と最適な値域は異なるとも思う。愛され方もまた技術ではないか。
ざっくりというと人生でいろいろな経験をしてみることで愛し方と愛され方の新しい技術がアンロックされて解像度が高まっていくのだと思う。暴論を言うとメンヘラ体質な人はセックスしただけで自分は愛してる愛されてるみたいな感情を抱くが、セックスだけが愛し愛する方法ではないということだ。セックス以外の愛の技術を知るべきだしそれはきっと人生を豊かにし、拡張してくれる。
これが愛の技術です、愛のカタチです、とバシッと決められるものでもないし個人によって異なるものだからその多様性を許容し、自分なりの愛をもっと見つけやすいトライアンドエラーできる社会や仕組みがあったらいいのになと思う。
自由に愛することへ無関心な社会
セックスって愛を育むコミュニケーションとして大きな手段なので愛とセクシャリティは切り離せないと私は思う。そして生物的にも社会的にも人間はヘテロセクシャルがふつうだと刷り込まれている(正確にはただそれがマジョリティであるというだけだが)。
一方私はここ5年くらいでバイセクシャルであることを自認したが、それまではふつうにヘテロセクシャルだと思っていたので気付いた時は割と衝撃だった。現在25歳でそろそろ周りが結婚しはじめるころ故、よく考えるのがまだまだ同性間の結婚(というかパートナーシップ)は社会的には認められてないから男性を愛することに億劫になってしまうなということだ。
みんながみんな賛成してくれるわけでもない(まあ別にいいけど)、現実的に自分の子どもを持つことができるわけではない、親世代からの理解、など考えると女性を愛して結婚しといたほうが無難だよな〜と思う。
何が言いたいかというとどんなセクシャリティだろうと自由に愛せる社会の土壌がないことに寂しさを覚える。(ちなみに断っておくとこれは別に権利を主張したいとかではない。)
どうして寂しさを覚えるかというと、私が20歳で変わったように誰だっていつセクシャリティが変わるか(自覚するか)なんてわからないのに社会はそこまで自分ごととして捉えないで興味ないからだ。と同時に怖い。あなたは何かをきっかけに自分のセクシャリティが変わったときにそれを気兼ねなく誰かに伝えられますか?
そして今こうして言っていることも関心のない人からしたら「ふーんそれで?」くらいにしか思われないんだろうなと思うと深い断絶を感じる。異性だろうと同性だろうともっと誰もが自由に愛せて𝑳𝑶𝑽𝑬があふれる社会になるといいなと思う。
全然考えがまとまってなくてただのお気持ちを述べただけだが今後も𝑳𝑶𝑽𝑬について思ったことがあったら何かしら書いてみる。