寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評③

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評②|水沼朔太郎|note(ノート)https://note.mu/mizu0826saku/n/n993c55594af4

語彙フェチと比喩の距離 橋爪志保②
 こんにちは。ひえ~序盤から結構難しいことが述べられている!えっとつまり、「カア」に「カア」と鳴き返さずに「アア」と鳴いているところが、共感系の歌からの「ズレ」であり、その「ズレ」を作者は求めているように読める。ファスナーの歌も、「『共感系』に『ズレ』をもってして立ち向かうこと」をわたしは美と呼ぶんですよ、という主張の歌と考えることができるし、それを最後に持ってくるのは別にそこまで悪いことでもない、というご意見でよろしいでしょうか(違ったらすみません)。それに対するわたしの意見は、なるほど!が半分、「え~主張なんてしなくてよくない?」が半分です。だって共感系の歌に対して戦っているひとなんていくらでもいるじゃないですか。わざわざ戦い理念を置きにいかなくても、実際戦っている姿でそれをアピールしたらいいじゃん!って思うんですよね。いくら「往復」って箇所が大事って言われても、「うつくしさ」とまで言っちゃうとやっぱり歌の魅力としては半減するような気がするんです。とはいえ、元来わたしはこういうタイプの歌は実は結構好きなほうで、最近好みが変わってきたというのもあってちょっと敏感になっているというのもあるのですが。うむむ。
 まあ、好みじゃなかった歌の話ばかりしたくないので、好きな歌の話をすると、例えばこんなのです。
  求人は永遠にあり湿気吸い丸まっていくタウンワーク
  世界中のバトンを落とすひとたちを誰もが否定しませんように
 これは、「無限」ではなく「永遠」、「非難」ではなく「否定」という語が使われているところにオシャレさを感じ取り、オッと思った二首です。ちなみにわたしにとって、この二首の、求人というもの自体の殺伐感や、バトンを落とす人への優しさは、まったくもってどうでもいいのですが、語のオシャレさにだけは、く~ったまらん!となりました。これ何なんですかね。フェチですかね。こんなことをさりげなく(言い換えると真顔、ですね)言われるとぐっと来てしまうんです。
  プーさんのようにお腹がつっかえたざるの網目のひじきを救う
  ティーバッグお湯から出され立っている飼い主の消えた犬のように
 こちらは比喩の歌です。わたし的にはこのあたりの比喩が一番ノれるなあという感じです。もちろん、ひとつひとつに大きな驚きがあります。プーさんとひじきの取り合わせなんて、ほんとに言い得ているのかが微妙すぎて笑ってしまいました。ティーバッグと犬も。めちゃめちゃ言い得ているとも、ただの幻視のようだとも、言えると思うんですね。どちらの歌も、「どうかしてるぜ」感に心くすぐられます。逆にわたしは〈蒲鉾のような雪〉にはあまり心をくすぐられず――というのも私の中で蒲鉾と雪は結構似ていて、チーズとか入った丸かまぼこと漫画とかで描写される雪の表現ってもうほぼ同じじゃん、みたいな意識だったのですが、うーん、これ、書いていて思うのですが、やっぱ比喩表現の良し悪しは水沼さんのおっしゃる通り、受け手の尺度に大きく左右されてしまいますね。
 でもひとつ言えることがあると思ってて。「AのようなB」の形に代表される文型、つまり比喩は、AとBがほどよい距離であると本来、読者に「なるほど納得」(これは共感とも言い換えられます……よね?)をさせる効果があると思います。けれど、寺井さんの歌は「びっくり」につながる。従来ほどよい距離だとされていたAB間よりも寺井さんの歌の比喩は少し距離が遠いんだと思います。
 そして、わたしが大胆に歌集のテーマを提示する、という話ですが、たしかにそうだなウググ、とうなってしまいました。しかもなんと、そのことに自覚がありませんでした。確かに簡潔に特徴とかをまとめて作品を理解した気になって安心しているなあよくないなあみたいな場面は今までのなかで何度かありましたが。大胆なテーマで他人の作品を括ることはものすごいリスクのあることだなあと思います。にもかかわらず自覚がなかったので、最悪ですね……。気を付けたいと思います。でも、この姿勢を大きく変えるかといったらそうはしないかもしれません。こういうタイプの評の仕方をする人も一人はいてもいいかな、くらいに今は思っているからです。

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評④|水沼朔太郎|note(ノート)https://note.mu/mizu0826saku/n/nf754bec1a313
 

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