「OoA」はなぜ「ヨ」に賛同できないのか?

こんばんは、「OoA」の中の人です 実はこの「OoA」も2020年で「満十周年」になりました、「オタクとして差別に反対する」と誤解されているようですが、「OoA」の本来の目的は「オタク内部の排外差別主義と闘う」と言う事です、理由は「オタクとして反差別」なんてやっても意味がないからです ハイ

それでは本題

ここ最近「∃xist」という単語を付けて所詮「表現の自由戦士」なオタクと敵対するオタクがTwitter上で増えています、この動きは自分の周りのカウンターの人らにも評価は高いらしく、同調している方も結構少なくないという印象です、しかし「OoA」を主宰する中の人的にはこのムーブメントには些か賛同しかねます、一応違和感については前にも「このコラム」で少し書きましたが今回はもう少し細かく書いてこうかなと思います。

其の一 「ヨ」の人って「反差別」にホントに関心あるの??

前から思っていますが「ヨ」を付けている人の中には意外と「反差別」に関心が高そうな人が少なくないんですが、この人たちはその割には「#ヘイトオタク」への糾弾はあまりしてくれないんですよ?? あくまで「差別排外主義的なオタクの糾弾」はかなり細かい部分は「OoA」しか糾弾していません、「ヨ」の人たちの関心事はあくまでも「オタクの社会性の無さ」だとか「公共にエロをぶち込むオタクの糾弾」とかそればかりです、そういう部分にはいつも孤立感を感じています、正直「オタクのヘイトとの親和性」という部分、ものすごく問題があると考えています、しかし「ヨ」の人たちもなんかその部分については「なぜ」か避けて通っている気がするのです

「ヨ」の人たちを良く分析してみると「オタクの右傾化傾向」に関して「分断」と「疎外感」を感じているのはよくわかります、「OoA」の考えですとまず「オタクの右傾化」というのが前提としてあり、そこから「嫌韓、嫌中思考」に染まっていき、そのはてに「ヘイトオタク」化するという考察で見ております、オタクの問題性を考える上でこれはある意味「最優先事項」で考えて行かなければならない事なのではと考えていますが関心が思うように伸びていかない事にかなりの不満を感じています。一度この事について少し話はしたんですが「自分らのやっている事も同様に重要なんだ!」と突っ切られてしまいました。「お互い別々にやればいいじゃないですか」とも、「反差別」って君たち「ヨ」にとって自分を飾るアクセサリー程度の認識なんでしょうか???

其の二 「オタクの社会性」「公共性」とかガチでどうでもいい、そもそも「社会性」「公共性」??

「ヨ」の人たちは結構「社会性」「公共性」「共同体主義」に並々ならぬこだわりと従属性があるのでその部分が一番「OoA」を主宰する中の人的に気に食わない部分です、はっきり言います

なぜなら「社会性」「公共性」「共同体主義」こそが「差別排外主義」の温床だと思っているからです、そういうことは歴史がいくらでも証明しているんですよ?

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少し前に「優性思想」で話題になりましたね? 「ALSで苦しむ患者を安楽死させた」というの?そして「津久井やまゆり園」 だから言いたい訳ですよ「お前が信じる社会性や公共性や共同体が弱者を殺せと絶対言わないか?」とね

「OoA」というのはアナーキズム的な思想も内在しているから「反社会性」的であることも否定はしませんよ??しかし「社会性」「公共性」に背を向ける姿勢を「テロリズムに繋がる危険な考え」として敵視し排除しようという動きもあったわけでしょ????実際、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では朝鮮人のみならず、社会活動家らが虐殺された「亀戸事件」や「甘粕事件」があったでしょ????

そういうと「我々が言う社会性はマイノリティと共存するという意味も含んでいるんだ」と言うんですがそもそも「社会性」なんてものにマイノリティの権利を保証する概念はありません、「公共性」も然りです、     

あくまでこれらの概念は社会の多数派を想定しての概念に過ぎないのでそもそも「マイノリティの存在」は想定すらしてないのです、ですから上に挙げた「脳性まひの人間を養う金で数人の健常者を養うことが出来る」とかこうした考えに基づいて行われたナチスドイツの障碍者抹殺作戦「T4作戦」やのちの「ホロコースト」というのは当時の「社会性」や「公共性」が規範だったわけです、つまり「社会性」やら「公共性」やらで人を物差しで測ろうという考えこそ「差別排外主義」的であるとOoAは考えてます。

社会に背を向けるからこそマイノリティの痛みが理解できる 「反差別」こそアナーキーだ

「我らは愛と正義を否定する」 尊敬する「横田弘」氏のこの言葉の奥には「社会」に「公共」にそして「共同体」に阻害された「脳性マヒ者」の孤独と憤る気持ちがあると感じたからこそ「OoA」の「反差別」は「社会のどこにも居場所がない者たちにも目を向けるべき」という考えに至っている、 「社会性」や「公共性」なんかよりもっと大事な「人ーが何故孤立するのか?」「なぜマイノリティは阻害されるのか?」という事が大事なのだ、

なぜ自らの障害が故に「愛や正義」を否定しなければならなかったのか??そこには社会性や公共性がもつ「選民性」や「排外主義」が根付いているからだ、そしてこうした意識が「障碍者ら」社会的弱者に刃を向けてくるのだ 「やまゆり園」も「T4作戦」もそして「関東大震災の朝鮮人ら社会的マイノリティや社会活動家らへの虐殺事件」もこの社会で「マジョリティ」で生きる者たちは誰しも「他人事」にしてはならない、「マジョリティ」である限り「殺す側」に立つ可能性があることを忘れるな

 

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