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書くことで考えることを取り戻す

最近は、noteのストックもない日々が続いているので、あまり予約機能が意味をなしていない。

その日暮らしのように記事を書いている。

書きたいことはいろいろあるのだが、いかんせんちょっとした時間で書くにはちょっと難しかったりする。そういうのは、もう少しインプットをしっかりしてから、アウトプットした方がいいようなこともある気がしている。

そうすると書けることは、一日のちょっとした時間で書けそうなことに限られてくる。
で、じゃあ今日はどうしようかなという感じで、なかなか書くことが決まらなかった。

だいたいシャワーを浴びているときに、今日は何を書こうかなということを思いつくことが多い。
で今日思いついたのは、そもそもなんで書いているんだろうという話。

東浩紀さんの「ゆるく考える」という本の中で、書くことについてのエッセイがあった。

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その中に、「『書くことで考えること』を取り戻そうとしている」という記述があった。

考えるという行為は、別に書かなくてもできる。人によっては、書くことだけではなく、話すことや謳うこと、絵を描くことなどで考える人もいる。

そういう意味で言うと、私は書くことで考えるタイプだとは思う(なんだかんだ毎日更新が130日になる)。

書きながら思いつくことも多い。実際、今も書きながら次に書くことを考えていたりする。

書くという行為をすると、当たり前だが頭を使う。タイピングをしながら、いろいろな思考が頭を巡っていく感覚がある。

おそらく「書く」という行為をしているときには、2つのラインが同時平行で進んでいる。

まず、文章を書いている。文字を積み重ねていく行為である。これが一つのライン。
もう一つは、次に何を書くかを考えるラインである。たぶん、二つのラインが同時並行的に頭の中で進んでいる。

東さんが指摘していたのは、昨今の批評が「言論のネタ化」「言論のコミュニケーションツール化」に陥っているという危惧だった。

いずれにせよゼロ年代には、評論をまえにして、そこになにが書かれているのかを読むよりも、まずは「こいつなんでこの時期にこれを書いたんだろう」と勘ぐる、そんな態度のほうが急速に優勢になっていきます。むろんそれは嘆かわしい状況です。しかし現実にそうなっている。

東浩紀. ゆるく考える (河出文庫)

自分は、評論家でも、ゼロ年代の批評家でもないけれど、この「状況論的読解」みたいなことは良くやっている気がする。

つまり、何かを読んだときに、その人がその文を書いた人の状況を想像する。例えば、パソコンで打ち込んでいるのか、コーヒーを飲みながらなのか、慌てているのか、後ろで子どもが遊んでいるのか、隠れてこっそりとスマホをいじっているのか、そんな状況を想像することが多い(もしかしたら、東さんのいう状況論的読解とは意味が違うのかも知れないけど)。

何でそんなことを想像するかというと、先ほどの二つのライン、書き手が考える二つのラインにのっかってみれないかなということを想像するからである。

このラインにのっかることができるとのめり込むように読み進めることができる。ああ、この人は、タイピングをしながらここでこういうことを考えたのか、うん、自分もそれを思っていた、あ、意外にもそういうことを考えるんだ、というような感じで没頭することができる。

東さんは、状況論的読解ばかりに終始して、内容を読むことができなくなっているということを危惧している。それもそうかなと思うのだけれども、状況論的読解がダメと言っているわけでもない。ネタから入ると表面的になってしまうけれども、もっと深く入っていくためには、先ほどの二つのラインにいったんのめり込んでから、もっと深くに自分で飛び込んでみたらいいんじゃないかと思ったりもする。

ということで、本当につらつらと思ったことを書いてみたけど、今日はこのくらい。でも、よくわかんないけど、つらつら書いていたら頭がまたスッキリしたような気がする。

そんなわけで、『書くことで考えること』を取り戻し、「今日一日を最高の一日に



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