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『東大理三の悪魔』アイデアとは伝えるものだ。

1997年。

東京大学理科三類の一年生である主人公は
毎晩8時に教養学部図書館を訪れ
閉館まで勉強する奇妙な生活を送っていた。

閉館後は渋谷で同じ理三の仲間と議論を交わしながら
食事をしたり酒を飲んだりする日々が続いている。

そんなある日
ボーイッシュな雰囲気の女性が夜の図書館に現れる。

彼女はいつもサングラスに黒いコートという出立ちで
難解な物理学の専門書を読んでいた。

主人公は彼女と話していくうちに
その圧倒的な世界観に引き込まれていくことに…

彼女との対話を通じて
「天才とは何か」や「この世界に隠された秘密」
について考えさせられるようになる。

内容だけみればこのような見方が可能だ。

しかし私たちは東大生という肩書だけで
天才ときめつけてしまっているのではないか?

たゆまぬ努力はあたりまえだがその前に
最も大切だと感じた〝人に伝える〟〝伝えられる〟
という私たちにもできることを日頃からしているから
天才なのではないだろうか。

悪魔とはなに?
日々頭の中に存在するもう一人の自分なのか
天才な彼女は存在したのか、頭のなかで考えさせられた。

創世記という抽象的表現を現代の科学物理学をベースに
会話ベースで物語が進んでいき気づいたら読み終わっていた。

しかしさすがは東大生。
こんなこと誰が思いつくのか
誰も思いつかないのではないだろうか。

このような考えをもって話すというのはいささか不思議な感覚だ。

それでもふと思うのは誰にも話していないのに
自分のなかでアイデアや考察がめぐることはないだろうか?

本書をとおして学べることは東大の天才の会話を学ぶのではなく
言語化が難しい思考についての取りあつかい方が
学べるのではないだろうか。

もし本書のような会話を個人に当てはめ客観視できたとき
自分の想像が形になるチャンスなのだろう。

本書にはニュートンとハレー彗星を予言したハレーの話しがでてくる(ネタバレになるので中身は言いません)

ただ簡単に話すと

ニュートンという天才なのに成果を公表していなかったもの

ハレーはニュートンという天才を発見し、世界に伝えたもの

このような関係でなくてはならない。

天才が集まっていくのもお互いに惹かれあうからであり
自分の考えを話すという原点がある。

本書を読み進めていくことで思考の中身を解放し
思いから言葉への変換が大切だと思わされた。

もし自分だけの頭の中にあるアイデアを腐らせたくなければ
一度声にだして誰かに伝えることの大切さを学べる1冊となることだろう。


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