参議篁の和歌×葛飾北斎の波…初詣御朱印に込められたストーリーを徹底解説!
一月ももう半分を過ぎましたが、皆さま如何お過ごしでしょうか。
当社では、この年の最初のご縁日である1月19日に「新年祭」というお祭りを執り行います。
昨年一年間、大神様にお守りいただいた感謝を捧げ、今年の弥栄と感染症の収束を祈り上げるお祭りです。
再び緊急事態宣言が発出され、予断を許さない状況が続きますが、公への祈りを共に捧げる日としてお過ごしをいただければ幸いです。
◆今月の御朱印の和歌
さて、今日のテーマは、今月の御朱印に満を持して登場した篁公のあの和歌を巡るお話です…😊
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」
参議篁
【意味】(篁は流罪の刑を受けて)大海原に広がる島々を目指して漕ぎ出して行ったと都の人々へ伝えてくれよ、漁師の釣り船よ
小倉百人一首でお馴染みのこの歌、「参議」というのは役職を指し、現在の閣僚に相当するもの。こちらは当社の御祭神である小野篁公が詠まれた歌です。
一見するとこの歌は、「いざ、大海原へ漕ぎだす冒険の歌」にも見えるかもしれませんが、都を離れて隠岐に旅立つ際に詠まれた、「流罪に沈む寂しい旅立ちを詠んだ歌」。
御朱印では、時世に負けない前向きな一年のはじまりになればと、迫り来る荒波を時世になぞらえて、そこを突き進む、全力でポジティブな「新しい旅の始まりに力いっぱい漕ぎ出る篁公と仲間たち」が描かれています…!
◆参議篁の名歌「わたの原~」が詠まれた背景
篁公は遣唐使の副使に選ばれ、唐に向けて出発しましたが、二度にわたり渡航が失敗。翌年の再出発の際には、遣唐大使の第一船が損傷し、篁公が乗船予定だった第二船を第一船と取り換えて乗船しました。
渡航のリーダーである大使の、部下に損害を押し付けるような振る舞いに怒った篁公は猛抗議。持病と老母の世話を理由に損傷した船への乗船拒否し、遣唐使の一行は篁公を残して中国に渡ります。
残された篁公は、怒りに任せて『西道謡(さいどうよう)』という漢詩を作って、遣唐使は時代遅れだと痛烈に風刺しました。(実際にこれが最後の遣唐使となりました)
この歌を知った嵯峨天皇は、看過ならぬと篁公を隠岐の島に流罪の刑に処されました。その出立の時に詠まれた歌こそが、小倉百人一首にも選ばれた「わたの原~」だったのです。
篁公が流された隠岐諸島は現在の島根県の沖に浮かぶ島です。
当時、隠岐国は流罪の中でも最も重い遠流(おんる)で遣われる地でした。
現代の感覚で言うと、京都⇔島根で何故「遠い」刑なのか、北に抜けて小浜や舞鶴から船で渡ればすぐじゃん…と思うところですが、そこには、当時は京都から北に抜けるには山越えの険しい道のりが長く続く という前提があります。
隠岐の島へは、現在の大阪市の港から舟に乗り、瀬戸内海を回って、本州と九州の境にある関門海峡を通って、ぐるっと遠回りをして船でやっと辿り着く。京から十八日、京へ三十五日の行程という、とても長い旅路であったそうです。
「海人の釣船」という言葉には、高官だった篁公が、身分は低くても自由にどこでもいける漁師の釣船に、遠く離れた都の肉親や知人に知らせてほしいと願った気持ちが込められているのだそうです。
その才を惜しまれた篁公は、あまりの能力の高さに1年余りで早々に流罪を解かれ、参議という国の要職にまで出世し、多くの逸話を残すこととなります。
◆篁公と漢詩の天才・白楽天
さて、篁公の文才は天下無双で、漢詩の腕は「日本の白楽天(はくらくてん)※」であると称されたとする文献が残っています。
その詩才は、唐土の詩人たちにも激賞されていたそうです。
篁公が、この配流の道中に制作した『謫行吟(たつこうぎん)』という七言十韻は、優美深遠で漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという逸話が残されています。
※白楽天(=白居易(はくきょい))
唐代中期の漢詩の名人で、清少納言も『枕草子』にて「文は文集(白楽天の漢詩集『白氏文集』のこと)、文選、はかせの申文」と述べるなど、日本の平安文学にも多大な影響を与えた人物です。
『江談抄(ごうだんしょう)』(平安時代の説話集)には、嵯峨天皇が戯れに白居易の詩の一文字を改変して篁公に示したところ、篁公はその一文字のみを添削して戻したというエピソードが記されています。
同じ時代に生きた篁公と白楽天、実は白楽天は篁公が遣唐使に任ぜられたことを伝え聞き、彼に会うことを楽しみにしていた(江談抄)ということです。
しかし渡航が失敗し、篁公は三度目の航海も乗船を拒否したために、白楽天との邂逅は叶いませんでした😿
余談ですが、小野篁公は最初の遣隋使として、日本の外交の先駆けとなった小野妹子の子孫にあたります。
最後の遣唐使に選ばれたのは篁公で、その遣唐使を最終的に廃止したのは当社御配神の菅原道真公と、なんだか運命めいたものを感じてしまいますね…✨
◆浮世絵の大廈「葛飾北斎」
今回の御朱印を彩る陰の役者は、そう。「波」です…!
波しぶきまで丹念に描きました…!
この躍動感溢れる波は、葛飾北斎の代表的な作品『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい) 神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』をイメージしたもの。
『富嶽三十六景』は葛飾北斎による、富士山をさまざまな地点から描いた浮世絵(名所絵)のシリーズで、その数は36種類…からの、実は売れ行き好評により10種類が追加された、言うならば『富嶽四十六景(!?)』でした。
『神奈川沖浪裏』が描かれたのは北斎が70歳ごろのこと。現在でも人気の『富嶽三十六景」の中でも一番有名な作品ではないでしょうか。
国内外の有名な美術館に所蔵され、海外にもファンが多い葛飾北斎。
この『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、海外では”The Great Wave”という呼称で知られています。
奇抜で大胆な構図で富士山を捉えた本作は、押し寄せてくる瞬間の生き物のような迫力のある波と、奥でどっしりと構える富士山との静と動の対比が大きな評価を得ました。
◆浮世絵は世界を変える
19世紀後半、ヨーロッパでは「ジャポニスム」ムーブメントが起こり、日本の美術工芸品が高い評価を受け、当時の芸術家たちにも大きな影響を与えました。
その中でも特に注目されたのが、この北斎の『富嶽三十六景』を代表とする「浮世絵」です。
モネやゴッホら著名な画家に影響を与えたのは有名な話ですが、音楽界にも影響を与えていたのはご存知でしょうか。
一見、北斎とクラシック音楽は接点が無さそうにも思えますが、『月の光』などの作曲で知られるドビュッシーは、交響響詩『海』の初版譜面の表紙に北斎の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』を使用しました。
また、同時期に活躍したラヴェルは、『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』に影響を受けたピアノ曲『洋上の小舟』を作曲。
当時の日本では、飽く迄も庶民の俗なる描写とされ「美術・アート」と見なされていなかった浮世絵ですが、「ジャポニスム」ムーブメントにより、海外の美術館やコレクターを中心に、およそ50万の浮世絵が収蔵されることとなりました。
これは国内で収蔵されている30万作品を大きく超える数字。ヨーロッパにとって、突然現れた異国の美は、どれほどのインパクトだったのでしょう。
北斎がその生涯をかけ残した作品たちは、現在も世界のあらゆる美に、さまざまな影響を与え続けているのです。
◆小野篁公とめぐる四季の旅
御参拝が難しい方も、身近な日常の中で神社や四季を感じられる一助となればと毎月2種類の「待ち受け壁紙」をご用意しております。
今月はこの御朱印の絵がモチーフとなった待ち受け壁紙です。
新たな年のはじめに、是非ご覧ください🙂
神社は「神様」と「自然」と「人」が交わる場所。
この「小野篁公と巡る四季の旅」を通じて親しくお参りをいただき、日々の中で四季の彩りを感じて頂ければ幸いです。
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