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お父ちゃんとおじいちゃんと横浜大空襲

東京の上空をブルーインパルスの編隊が飛んだ2020年5月29日の75年前、1945年5月29日に横浜大空襲があった。太平洋戦争末期、アメリカ軍のB29爆撃機による無差別攻撃。9時20分から約1時間に及んだ焼夷弾による攻撃で横浜市の3割以上の面積が焼失した。8千人から1万人の死者が出たと云う。

横浜大空襲の話はお父ちゃんからも聞いたけれど、子供の頃に同居していたおじいちゃん(母方)から色々と聞いた。太平洋戦争当時、おじいちゃんは国鉄の東神奈川駅で働いていたらしい。おじいちゃんによれば、東神奈川駅前のスペースには横浜大空襲の犠牲になった方々の亡骸が見渡す限りに累々と並んで、その上にトタン板がかぶせてあるだけだったと云う。駅舎に行くためにはそのトタン板の上をずっと歩いて行かねばならず、おじいちゃんは手を合わせながら歩いたと話していた。その時の足先から感じるやわらかいようなぐらぐらするような得も云われぬ感触をずっと忘れられないとも。おじいちゃんの話し口調が淡々としていたので余計に怖かったのをよく覚えている。

駅前に並べられた亡骸の中に、自分の家族がいるのではないかと、トタン板の下を覗き込んで行方不明の家族を探している方もいて、おじいちゃんはトタン板を持ち上げるなどして捜索を手伝ってあげたそうだ。そしてあれだけ並んでいた亡骸も、国からの命令を受けたであろう業者がある日突然やって来て、亡骸を片っ端からトラックに載せてどこかへ運んで行ったとのこと。後に残ったのは大量のトタン板だけ。その板の片付けもおじいちゃんがしたそうだ。おじいちゃんはその亡骸を運び去った連中にひどく憤慨して、色々と文句を並べたけれどそれはあまり良く覚えていない。

空襲はその時だけでなく、神奈川県内では川崎でも富岡でも鎌倉でも小田原でもあって、日常の中に空襲と云うものがスリープ状態で潜んでいるその当時の感覚をお父ちゃんも話してくれたことがある。いつB29爆撃機が飛んできて、焼夷弾を投下するか判らない。昨日までそこにあったものが、影も形もなくなってしまう驚きと悲しさ。食料の壊滅的な不足。言論への弾圧と同調圧力。日毎に募る無力感。もうそうした戦時中のことを実体験として話してくれる人がとても少なくなって来た。思い出さなければ忘れ去られてしまう。そう考えて今、僕が聞いたことを思い出して文章にしてみています。

横浜大空襲で、そして太平洋戦争で亡くなった全ての方のご冥福を、心からお祈り致します。

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僕が生まれ育った家の裏に池があった。鯉やら金魚やらが大して世話もされずに大きく育っていっぱいいた。池の中に階段が続いているような変な作りだったので、子供心に普通の池ではないとは思っていたけれど、そこが池ではなくて家の下にまで通じている防空壕跡だったのを知ったのはずっと後のこと。家からちょっと歩いたところにあった空き地には、戦時中は米軍機迎撃のための高射砲が設置されていたそうだ。いつB29爆撃機がやって来て、どこそこに焼夷弾が落ちて、誰それが亡くなったとか、僕が子供の頃はおじいちゃんと母ちゃんがそうした話題を最近あったことのことのようにしていたけれど、太平洋戦争が終わってまだ20年ほど。20年なんてアッと云う間に過ぎる。

終戦から75年。遠い昔のように思えてそれ程でもないように思う。話は逸れてしまうが、カナダのバンドRUSHの『Permanent Waves』と云うアルバムの発売が1980年、今から40年前。このアルバムのサウンドは自分の中では全く古くさくなっておらず、初めて使うレコーディングスタジオでリファレンスとして必ずかけてもらって、音の聞こえ方のチェックにも使っている。特にドラム、シンバルと云った基本的な音は、このアルバム以上、または同等程度に自分の心に響くレコーディング作品は少ない。20年前なんてつい最近のこと。40年前だって自分の中に深く刻まれていることはいっぱいある。そこからまた35年遡るとまだ太平洋戦争だったのだ。大昔のことではない。自分が生まれていなかっただけで、長い歴史の中では極々最近のことであるのだ。

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僕の叔父さん(母ちゃんの妹の旦那さん)は航空自衛隊のパイロットだった。パイロットを引退してからは教官として自衛隊で働いていた。僕が小学生の頃は、叔父さんの家に夏休み中ずっと預けられていた。転勤とかがあったので、浜松にも行き、小牧にも行き、そちらの盛夏を体験している。ふと思い出したので書いた。またこのことも思い出して色々書いてみようと思う。

お父ちゃんは以前にも書いたとおり、戦後は本牧の米軍住宅などに出入りをして仕事をしており、アメリカ人との交友が深かった。母親と結婚して母の実家を増築しておじいちゃんとも同居して、僕が生まれて、弟も生まれた。おじいちゃんはアメリカかぶれ(と云っていたことがある)のお父ちゃんをあまり快く思っておらず、かと云ってケンカをするでもなく、何となく微妙な雰囲気の中で暮らしていたと思う。

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おじいちゃんがお父ちゃんに心を開くことはあまりなかったと思うが、ある日のことお父ちゃんが台所に立ってカキフライを揚げた時、それを食べたおじいちゃんはあまりの美味しさに「義郎さん、こんなにうまいものがあるのか、ありがとう」と感謝の言葉を発したことがある。これはとてもレアなことだったらしく、後年母ちゃんも「あの時だけはお礼を云っていたね」と述懐していた。当時の僕は、牡蠣に粉を振って溶き卵にくぐらせてパン粉を付けて揚げると云う一連の手順を見て心から興奮したけれど、出来上がったカキフライを食べてみるとあまりにも大人の味わいに思えて、一口食べた後は遠慮しました。やれやれ。

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美味しいと感じると気持ちも素直になる。素直な気持ちは素直に通じ合う。美味しいと云うのは素晴らしいことだと思う。

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人々が争うのが好きではない。争うと云うことが人間の中に既にプログラミングされているのだとしても、それを凌駕し超越していくのが学術や文化の役割ではないのか。争いは絶えない。でも認めたくない。綺麗事を並べるのは偽善的で独善的だと云われても、これからも綺麗事を声高に発していくしかない。大義名分や大言壮語や甘言密語や無知や妄信や無関心や無感覚をちくちくと刺激し続けるしかない。面倒臭い口うるさいジジイになってしまうかも知れない。でもやるんだよ。僕のおじいちゃん、名前は和久田茂一郎、近所でも有名な変わり者だった。僕はその血も受け継いでいる。お父ちゃんの血もおじいちゃんの血も、2020年にまだまだ騒ぐ。小野瀬雅生57歳。気が付きゃ立派なジジイだ。ジジイマストゴーオン。まとまりのない文章ですみません。これからもがんばります。

末永くがんばりますのでご支援よろしくお願い致します♫