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今日のエウレカ#17 電車内で独り言を呟いてる人に遭遇した時のギョッとするあの感じ

今日、飯田橋の長い長い地下通路を歩いていたら、20mほど前方、通路の真ん中にそびえる丸い柱の向こうに揺らめく人影を見た。

第6感が異常を感知し、恐る恐る近づく。

柱の向こう側では、ランナーの格好をした30代後半くらいの長身の女の人が、柱に向かって頭をこすりつけ、全力でダッシュし続けていた。

RPGのダンジョンで入れない扉に向かって全力で突進するキャラクターのように、位置は変えず、足だけを動かし続けている。

明らかにおかしい。

その人は全力ダッシュを続けながらも、辺りを一向にはばかることなく地下通路に響き渡る大声で何事か話し続けている。

2重におかしい。

よく見ると耳にイヤホンをつけている。

どうやらマイクで誰かと通話しているようだ。

私は独り言でなかったことに一瞬ホッとし、いや、だからと言ってホッとしていいシチュエーションではないぞと思い直した。

なぜ、彼女は、柱に向かって突進しながら電話で話しているのか?

ランニングの途中で電話がかかってきて、会話に夢中になるあまり目の前の障害物(柱)に気付かず走り続けているのだろうか。

おそらく違う。もしくは電話に集中するため走るのはいったん止めたものの、クールダウンを避けるため足だけは動かし続けているのかもしれない。

だからって、なぜ、柱に頭を擦り付ける必要があるのか?

しかも、飯田橋の駅地下通路で?

謎を謎にしたまま、私はその人を通り過ぎてしまった。


ここ2〜3年の間に、電話機を持たぬままイヤホンマイクを使って通話する人が街中に激増したが、まだ慣れず、見かける度にびっくりする。

電車の中で独り言を言っている人を見かけた時のあの車内一同の「ギョッ」とする感じ、あれに耐えられない私はできれば早く慣れたいのだが、やっぱり難しい。

若い世代(10代から20代前半)はあれを見てもなんとも思わないのだろうか?

例えば、電車内で化粧をする、とか、携帯電話で大声で喋る、だとか、公共の場で、他人に「見られている」という意識を捨てている人と接した時に、私たちは居心地の悪い思いをする。

そう書いたのはどこの社会学者だったか忘れたが、

「他人の世界から締め出されている」こと、たったそれだけなのに、なぜこんなにも心の表面に鳥肌が立つのだろう。

同時に、最近多いなと思うのが、ツイッターで「自分にリプライ」している人だ。

例えば、私が

「あーあ仕事でダメ出しくらって全ボツにされて最悪。構成から丸ごと修正必要ならテスト原稿送った段階で指摘してよね」

と仕事の愚痴をつぶやいたとする。(例えばですよ)

その直後に、自分のアカウント名に向けて

「@MiUKi_None なーんて、こんな愚痴言ってても仕方ないから明日も頑張るしかないんだけどね」

・・・こういう感じ。

こういうリプライをしている人を見ると、私は街中でブツブツ独り言を言っている人を見たときのような違和感を感じて、ぎょっとしてしまう。

でも、これは似ているようでまるきり別のパターンだ。


ツイッターで独り言を言っている人は、本当に独り言を言っているわけではない。

本当に自分に向けての独り言ならわざわざツイッターに書かない。

本当は見て欲しいのだ。


メモ、とか頭につけてなんか呟いている人もいるが、本当にメモだったらツイッターに書かない。

メモを取っている私、を見て欲しいのだ、多分。


自分にリプライをする、ということは、大勢に向けた発言ではない、というサインだ。これはごくごく私的な独白ですよ、だから、迂闊に絡んでこないでね、という、見る人に向けた意思表示である。

でも、その実、

「私に関心のある人のみ、この発言を見て欲しい」という気持ちがその裏に隠されている。

独り言を装って、でも、知って欲しい、胸の内。

そう考えると、私たちのコミュニケーションっていうのは、本当に、薄氷のように脆くて危うげなコンテクストの微妙な差異を嗅ぎ分けることで成り立っているのだなあ、としみじみ思う次第である。


帰り道、あの女の人がまだあの柱に引っかかっていたら、と思うと怖くて同じ場所を通れなかった。

最終的に、彼女はどこにたどり着いたのかなあ。



ありがとうございます。