芽3

人生のすべての時間は萌え出る芽

 朝、彼に「成人おめでとう」とメール。生きているとまさか自分の身にこんなことが、と思うよなことが度々起こるけれど、今日のこれなんかまさにそんなかんじ。

 成人かあ、この人は萌えたての木々のような、一瞬一瞬をいま、生きているのかと思うと、なんだか眩しくもあるし、同時に羨ましくもある。

 私は相手の1.5倍の人生を生きていて、しかしその0.5の差は世間から思われるような0.5では決してない。彼女のほうが年上、というと、落ち着きがあり、社会的に責任のある成熟した女性、を思い浮かべられがちだが、私はそのどれでもまったくなく、なんでこの人は私と一緒にいるのだろう、互いの足のあいだについているものだけで付き合っているのじゃあるまいか、と時々思う。

 はたちのころの私は、あまねく大人はスーツを着て会社に行っていると思っていた。今、1日じゅう家から半径50m以内のところにいて、平日にも平気で旅に出かけ、雨が降る日は遅くまで寝ている、私のことを彼はどう思っているのだろう。作家というのはアウトプットがない限りは仕事の形が目で見えないのであって、それを今、一時的にせよ減らしている私は、果たして「仕事している」と認識されているのか、どうか。

 分かっている。これは単に、去年、頑張ってきた成果を本という形で出せなかったことによる、社会に対する焦りや罪悪感を彼に投影しているだけにすぎないのだ。「人からどう感じられるか」を気にするのは、全部自分の問題。

 昨日おとといと、小学生向けにダンスと文章の教室をやった。大人に向けた個人の文章講座はやったことがあったが、集団での、しかも子供に向けた文章教室は初めて。ずっとやりたかったことなのでとても嬉しい。

 エイスクールの教室に来る子は、親が教育熱心だったりして、子供達も聡い、というか、「おとなこども」の殻を被っている、というかんじ。それをぶっこわしてもらうために、ダンサーの青剣くんを呼んで、体を使うアイスブレイクを1時間かけてやってもらう。思った通り、というか予想以上に子供達はダンスに熱狂。場の空気があったかぁぁいバラ色に。

 彼のワークショップは、大人は一瞬で子供に、子供はそれ以上に子供にもどす力があって、たとえば最初、明らかに緊張している風だった女の子がいた。「自分でないものの殻」みたいなものをかぶせられている子の体はなんだか固い。私もそういう子供だったので、硬さが空間を通じて伝わってくる。たたずまいがまず、大人びていて、でも、不安そうな顔をしている。

 でも、ダンスをして体を動かすうち、だんだん緊張がほぐれて、他人との距離が縮まって、体の底から湧いてくる熱が手足から溢れ出てきて、最終的に「動物になるワーク」で「犬になって」と言ったら、もう身体中が犬そのものというか、会場でいっとう犬になりきっていて、あ、この子は殻をやぶ(った、らされた、られた、ってしまった)な、って思った。

 そんな風に、子供たちに、ふにゃふにゃで生まれたままの自分、に出会ってほしかったのだ。大人の殻を被らず、むき出しの自分自身で作文を書いてみて欲しかった。それが作文とダンスを組み合わせた狙いだったのだが、参加していたお父さんお母さんにもそれは効果があったみたいだ。大人も子供も、全員がひゅっとイッペンにふらっとになった感じがした。

 とはいえ作文のパートでは、低学年の子全員が同じようにやるのは難しく、最初は思う通りにいかないこともあった。けど、子供は一瞬で吸収して一瞬で化ける。初めは物怖じしてなかなか書けなかった子が、周りから質問やヒントをもらったとたんにぱーん!とスイッチが入り、ものすごいいきおいで膨大な量の「物語」を一気に書き上げたりした。

 そういう子ども1人1人の変化を、全力で見つけて肯定し、それぞれの魅力や個性を本人や親たちに知ってもらおうと思ってやっていたが、上手くいっただろうか。

 子供と一緒に遊ぶうちに、私も頭のネジがぽんと飛んで行ったみたい。

 何を今まで我慢していたのだろう。

 書くことについて、出版社の都合、編集者さんのコントロール、ジャンルだとか、売り方だとか、いろいろな制約を設けられている気がして去年一年間、とてもしんどかった。けど、そんなものに従っていたらもったいない。ただ無心に、好きなことについて書く、あの気持ちに蓋をして、ルールにがんじがらめになって、いつのまにか、目的と手段が入れ替わっていて。

 そんなことをしたら、「私」がもったいないじゃないか。

 子供たちを見て、ああ、私も彼らの延長線上にいるのだなあ、とふと思う。私も「彼ら」だったことがあるし、いまも「彼ら」なのだ。20歳の時間を生きている彼の、8歳の彼らの、延長線上を、いま、30歳の私は生きているのだ。別の存在じゃない。過去に芽吹いた時間は繰り返し再生する。時間軸を行きつ戻りつし、私の時間もまた、一瞬一瞬が萌えたての木々なのだ。

ありがとうございます。