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新型コロナ鬱熱日記

4月某日

緊急事態宣言につき完全に家の中で過ごす生活が始まるも、何も変わった気がしない。そもそも4月は新刊のプロモーションの時期なのであえて仕事を入れておらず、特にする事があるわけじゃないので暇なのだ。

とはいえ慢性的に体調が悪いのは、やっぱりストレスなのだろう。先が見えない不安からというよりは、書店が次々に休業を決め、新刊が思うように売れないという事があり、それから来る不安だ。紀伊国屋書店が全店休業を決めたというニュースを見たときにはそれが最高潮に達して担当編集者のMさんに鎌で首をいきなり後ろから刈るようなメールを送ってしまい電話でなだめられた。Mさんごめんなさい。電子書籍はえらく好調(らしい)、書籍の方も開いている書店さんではきっちり売れてますよとご連絡いただいたのだが、こんな前代未聞の事態下で一寸先のことなど何も分からない。依存心の強い私の悪い癖だが、誰も正解を知らないという状況では不安が爆上がりする、そんなわけで慢性的に体調が悪く、暇なのに何もできていない、にも関わらずエッセイや記事の執筆の依頼はひっきりなしに来る、メディア業界の皆、取材やインタビューができないので自宅で書けるエッセイストに依頼が集中するみたいだ、とは言え依頼の内容も「コロナについて書いてください」というぼやっとしたものばかりで、これは現在ウェブメディアの多くでコロナ関連以外のニュースがあまり読まれないからなんだけど、目的語が大きすぎて何を書いたらいいかわからない、編集者さんたちもきっと何が正解なのかわからないから多分、ばくっとした依頼にならざるを得ないのだろう、知人友人のエッセイストの所にも似たような依頼がいっぱい来ていると言っていた。誰も先がわからない、だから何を語ったらいいかわからない。そもそも外に出ないだけで、こんなにも創造力が衰えると思わなかった、コロナパニックの前までは、できればあまり家から出ずにゴロゴロする生活がしたいなあと思っていたけど、こうなってみて初めて、外界からの刺激に想像力をたっぷり刺激されていたのだなあと思う。考えて見れば当たり前のことだ、創作家だって一人で生きているわけじゃなく、出会う他人や喋る相手や眼に映る物事は皆自分の写し鏡、そのリフレクションによって、作家はものを表現しているにすぎない、ネットのニュースやYoutubeやNetflixから入って来る情報は刺激的だけど平面的で陰影がない、裏側を探る余地がない。アウトプットの起点となる引っかかりがない。1たす1といれたら速攻で2と出て来るくらいの安易さ平易さでしか、感想を紡げない。早く自己治癒としての小説を書きたい。

4月某日

調子が悪いことを、いつも通っているとても腕のいい鍼灸師の先生に伝えたら、

「うん、そうだよ、だって小野さんの体、鬱熱が溜まってるもん」

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