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登校なんて時代遅れ #8月31日の夜に

noteの水野さんから「8月31日の夜に」というハッシュタグ企画に参加しませんかとメッセージがある。

私はこういうの、上手く書ける自信がない。だって一口に「不登校」って言ってもあなたの不登校と私の不登校は違うし、原因も状況も環境も違って、学校に行きたくない人をひっくるめてアドバイスとか、とてもじゃないけどできそうにない。

けど、もし何かをあえて言うのなら……そうだな、

「不登校、めっちゃ最高、イケてる」ってことだ。


もうすぐ、十把一絡げの教育を選ぶなんてダサくってやってらんないって時代が来る。必ず来る。今だってすでにそうだ。

そもそも人間、ひとりひとり得意なことも特性も違うのに、なぜ同じ空間にぎゅうぎゅうに押し込められて、制服なんてださいもん着せられて、おんなじ内容の授業を同時進行で受けないといけないのか。あんなもん、耐えられる方が異常である。つまり耐えられない時点であなたはまともな人間です。おめでとう!プップ〜、ぱふぱふ。

こう言うことを言うと「学校に行かないと協調性が育たない」とか「社会に適合できない」とか言い出す人が必ずいるけど、協調性なんて社会に出たら必要な分は嫌でも身につくから、わざわざ学校にまで行って学ぶことじゃない。学校で学ぶ協調性なんて、せいぜい満員電車を我慢するとかそれぐらいにしか役に立たないもん。親や先生たちだって、たいていは反対するだろうけど、彼らの言うことはだいたい時代遅れなので無視していいです。


「学校に通えば協調性が身につきます。協調性というのは生きるための一つの道具です。それ一つで世の中を渡って行ける人もいますが、なければないで構いません。あったほうが便利ですが、なくったって生きられます。もちろん、後からだって身につけることはできます。順番は後でも先でも構いません」
 優しく、しかし一切の甘やかしを含まない声だった。リョータは戸塚さんの目を見つめたまま、じぃっと動かずにいる。
「学校に行かないことで、リョータさんは少しだけ、人とは異なる努力が必要になるかもしれません。人と違う道を選んだことで、何かしらの違和感と戦うことになるかもしれません。それから、学校に行かない間は銭湯の仕事を手伝ってもらいます……大事なのは、今のリョータさんにどちらが必要かということです。賢さというのは、今、自分が何に立ち向かい、何に立ち向かわないかを選ぶ能力のことです」”(『メゾン刻の湯』より)


なんで今の教育はそんな形になっているのか。それは、この形がこれまでの産業社会にとって都合が良かったからです。でもこの10年で状況は変わった。だいぶ変わった。高度経済成長社会でもないし、足並み揃えてたら幸せな世の中では絶対にない。

一人一人が自分にあった生き方を選ぶ時代に、なんとなーくで同じ空間にいて、なんとなーく同じことして、みんなと同じことができなきゃ怒られる、なんて教育、最高にダサい。不登校の皆さんはそれにすでに気づいて時代を先取りしているわけだから、むしろクールって褒め称えられるべきで、そんな時代遅れなやり方に無理やり適応しようと努力する必要、絶対にない。1秒でも早くやめるべきだ。

不登校のいいところは、まず、無限に自由に時間が使えるところ。考えても見て欲しい。多くの場合、大人になればなるほど自由に使える時間は減ってゆく。今、脳みそが柔らかい年齢で好きなことに自由に時間を使えるのって最高に美味しいしハッピーだ。

私は中3で不登校になって、その後復帰しちゃったけど、どうせならもっと積極的に不登校しとけば良かったな、って少し後悔してる。嫌な場所にいやいや行ったところで、得るものなんて爪の先のアカぐらいしかない。親の意見に流されて大学にも行っちゃったけど、行かなくて良かったな、って今では思う。

大学の外の世界の方が、私にとっては大学の中の小さな世界よりも100倍面白かったし、自分で働いて金を稼いだ経験からの学びの方が、大学で学んだことよりずっと大きかった。

と、ここまで書いたけど、やっぱり「不登校って惨めだな」とか「他の子と同じように学校にいけない自分はダメだ」なんて思っちゃうこと、あるよね。

そらそうだ。不登校するってことは、なんらかのネガティブ要因を感じて学校に行くのやめちゃったわけだからさ。友達が学校にいないとか、いじめられてるとか、先生が嫌いとか、集団の雰囲気に馴染めないとか、勉強が苦手とか(あとは親に対する反抗心で学校に行かなくなるケースもある)。いくつかの要因が複合している場合もある。私の場合は全部だった。

けど安心してほしい。あなたが学校に行けない、もしくは前向きな気持ちで生きられないのは、あなたの今いる環境がイケてないからであってあなたのせいでは決してない。

学校に行きたくないあなたが悪いわけではなく、あなたが行きたいと思えないような魅力のない学校が悪いのだ。


もし、今、不登校で、やることなんか何にもないし、つまんないな、って感じているとしたら、1つだけやってみて欲しいのは、

とにかく「いい感じ」の大人を探すことだ。

「いい感じの大人って何か?」

それは、私にもわからん。「いい感じ」の定義は千差万別だ。人によって違う。恋人が言う「いい感じの人」があなたにとってのいい感じとは異なることだってあるし、親の言う「いい感じ」なんてもっと信憑性がない。

だから、私たちは大人になるまでの間に、自分にとっての「いい感じ」を定義する必要がある。こればっかりは勝手に人に決められてはいけないものだよ。価値観とは18歳までに集めた偏見のコレクションのことである、と良く言うけど、どうせなら、「いい感じ」の大人たちからそれを集められたらいいよね。「嫌な感じ」の大人から、それを押し付けられるよりはさ。それができれば人生勝ったも同然だ。つまんない常識に惑わされなくていいんだもん。

私にとっては、少なくとも「いい感じ」の大人は学校には一人もいなかった。学校の外で会ったヘンテコな大人たちの方が、私にとっては100倍「いい感じ」だった。

19時から21時までの授業予定なのに、毎回ヒートアップして終電間際まで日本史の小ネタを喋りまくる予備校の先生の話は最高に面白かった。それまで日本史は好きじゃなかったけど、いつの間にか得意になった。

フリースクールにふらっと遊びに来ていた、中学を中退してトラック運転手から初めて、いつのまにか青山にある化粧品会社の社長になっちゃったって男の人は、パワフルで、学校の先生たちよりもよっぽど頭が良かった。

六本木のキャバクラで出会ったドラァグクイーンのお姉さんは、大学のしょんべんくさい女友達よりもよほど魅力的だった。

他にも、ヨルダンで出会った騎馬民族の首長とか、引きこもりの後にプロゲーマーになった人とか、ポーカーの世界選手とか、学校には行ってないけど、今とても幸せそうで、かつやりたいことを楽しくやってる人たちにたっくさん会ってきた。

その人たちに会って、ふーん、なんだ、いい感じの大人になる為のチケットは、学校に行けば配ってるもんじゃないんだなって気づいた。

なあんだ、『学校に行かなきゃろくな大人になれない』とか『いい大学に行かなきゃ人生成功しない』とかって全然嘘じゃん、って。

もちろんそれを学校でゲットできる人もいるけど、あなたはそうじゃなかったってだけで、あまりそこを気にしてもしょうがない。

とにかく、「自分にとってのいい感じの大人ってどんなやつか」を研究すること。何もすることがない時間は、その為にある時間だと捉えていい。

安心してよ、学校なんてイヤイヤ行ったところでどうなるもんでもないし、学校に行かなかったところで、どうにでもなるからさ。


と言うわけで、これが私の「 #8月31日の夜に 」である。

ああ、浅生鴨さんみたいにしっとりしたエセーを書くつもりだったのに、全然しんみりしたことが書けなかった。でも、いい。こんなのしんみり語ることじゃない。不登校おめでたいし不登校めちゃイケてる。もしもあなたが8月31日の夜、本当に明日から学校行きたくないなと思ったら、思い切って行くのなんかやめちゃっていいよ。そんなの、大したことじゃない。

どうせ飛び降りるなら、ビルの屋上からじゃなく、線路の上でもなく、集団の常識から飛び降りよう。そっちの方が地面に叩きつけられて体バラバラになって「全身を強く打って死亡」って報道されるより、一万倍もクールだからさ。50年後にはみんな、その決断をしたあなたを最高に褒め称えてるに決まってる。

だって「何かをやめる」ってことはさ、それ以外の、無限の無限の無限の未来が開かれるってことなんだもん。




ありがとうございます。