おいしいアート 補足

■『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』2004 深澤 直人
『つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。』
『アフォーダンスが伝える環境の情報とリアリティは、知識化・情報化された社会における身体の本音なのである。身体がえる情報と脳が蓄える知識としての情報のバランスが著しく乱れた社会に生活する人間に、アフォーダンスはわれわれ自信に内在していた「リアリティ」を突きつけた。』(深澤直人)
これだけではそれほど印象に残らなかったかもしれないが、ちょうどこの辺りを読んでいた時に「輪郭についてのノート」(松島潤平)の一文『この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。』(Now JParchitects/ 松島潤平)が重なって妙に印象に残った。
アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では距離を置いていたのだが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、生態学的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がした。
『現在の私たちにとって意味ある建築の行為は、いつも同じだが、人間に活気をもたらす象徴を成立させることであると言いたかった。そこで私たちは< 生きている> ことを知り、確認することになるのであろう。そのことを建築というジャンルを通して社会に投象するのが、この水準での建築家の社会的役割と考えるのである。』(『建築に内在する言葉』坂本一成)
だとすると、むしろアート的なものは社会的役割として建築に必要なものなのかもしれない。また、建築が設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係の中で生態学的に知覚されるものだとすれば、建築にアート的なものを持ち込むとしても、決して設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係のあり方として持ち込むべきであろう。建築そのものにアフォードさせることが肝要で、いうなれば建築は環境そのものとなるべきだと思う。そして、そこで生まれた体験者の能動的・探索的な態度にこそアフォーダンス的(身体的)リアリティが生じる契機がある。

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