おいしい流れ 補足

■『小さな矢印の群れ』2013 小嶋一浩
ここで書かれているように、建築の最小目標をモノ(物質)の方に置くのではなく、『<小さな矢印> が、自在に流れる場』の獲得、もしくはどのような「空気」の変化を生み出すか』に置いた場合、「探索モードの場」のようなものも「小さな矢印の群れ」の一種足りえるのではないだろうか。
私が学生の頃に著者の< 黒の空間> と< 白の空間> という考え方に出会った気がするが、この本の終盤では黒と白にはっきりと分けられない部分を< グレー> ではなく< 白の濃淡> という呼び方をしている。それは、「空気」が流動性をもった活き活きとしたアクティビティを内包したものであってほしいという気持ちの現れなのかもしれない。
同様に、例えば< 収束モード> と< 発散モード> を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される自在さをもった< 小さな矢印の群れ> として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないだろうか。

■『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』2002 富永 譲 他
『富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。[…]そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。それは「知覚的」か「実存的」かという問題だろうが、僕なんかの世代の多くはそれらに引き裂かれているのではないだろうか。「知覚」への憧れと「実存」への欲求。その間にあるのはおそらく一見自由に見えて実はシステムに絡めとられてしまう不自由な社会であり、そこから抜け出そうとすることが僕らを引き裂く。もっと若い世代だとその今いる地点から「知覚」や「実存」への距離はどんどんと拡がっているように思える。(特に「実存」への距離)また、その距離に比例するように「知覚」への憧れと「実存」への欲求は深まり、さらに分裂する。[…]それらを全く異なるもののまま同居させるコルの複雑性。これこそがコルビュジェの魅力の秘密かもしれない。』(太田)
生態学的な視点は知覚と実存の問題を不可分なものとして結びつけるのではないだろうか。その時、ここで書かれた意味での「知覚的空間」と「実存的空間」は並列に扱い得る探索モードの違いであると捉え、建築の中に体験としてレイアウトできるようになるように思う。

■『流れとかたち――万物のデザインを決める新たな物理法則』2013 エイドリアン・ベジャン
 ペジャンはあらゆる流れが、より良く(より早く、より容易に、より安く)流れるように進化し、それは、最も多くの流れをより早くより遠くまで動かす流れと、もっと少ない流れをもっとゆっくりもっと短い距離だけ動かす流れの2 つで構成され、それらの流れに要する時間は等しくなる。
また、このの構成は階層的・入れ子的に多くのスケールの構造となり、それぞれのスケールにふさわしいデザインとなる、という。
「何が流れているか」がデザインを考える上で重要な問いになるが、ここでは都市や建築において知覚が流れていると考えてみる。都市のスケールではそれらはより大規模に早く流れ、建築のスケールでより小規模にゆっくりと、よりヒューマンな体験として流れている。
それらは分断されたものではなく、一連の流れであり、それぞれのスケールにおいてふさわしいかたちをとる。
このように考えてみると、都市と建築の関連と役割がぼんやりとではあるがイメージできるような気がするし、そのイメージを育てることが必要であろう。

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