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運悪く端から2番目に座った時には

そんな、単純であたりまえのことが大切。
でも当たり前のことで勝負するのが一番難しい。
私は建築家として、自分では寸法にいちばん責任をもっている。自分のプロとしての責任として、寸法を大事にしています。

そんな当たり前のことについて言葉にすることも、同じように難しい。

昨日のもそう、一昨日のもそうかもしれない。単純で当たり前のことって、多くの複雑な言葉を必要としない。

それが「詩」という言葉に表れている。多くの言葉はそこにはないけれども、多くの関係性がそこに隠れている。

その関係性を定義づけるのが建築においては寸法である。

例えば、10人で飲み会を開いて一つのテーブルに自由に座ったとする(ただしソーシャルディスタンスは考慮しないものとする)。そこには、それぞれの人がどの席に座るか、と同時に、それぞれの人の間の寸法(距離)が自然と定まってくる。そこには人々の関係性が寸法として表れている。

6人以上の集まりだと、僕はたいてい、はしっこで人との距離を感じ続けることになる。

はしっこならまだいい。運悪く端から2番目に座った時には、端の人が居ても立っても居られなくなり、ついには僕を飛ばして、僕の反対側の人と喋りだしたりする(つまり、僕の右の人と左の人が話し出す)。そして、僕はそこにいつつ、限りなく距離を∞に近づけよう、つまりいないことにしようとする。

建築で、どうしても現れてしまう構造材なんかを、できる限り細くしたり、黒く塗ったり、鏡を貼ったりして、いないことにしようとすることがよくある。

僕はそういう、いないことにされている構造材を見ると、なんだか同情して少しチクチクしてしまうので、僕はあんまりそういうことをしないし、どちらかと言うと、その構造材と他の構成物との関係性を調整することで、どちらもなくてはならないものにしようと試みる。

というのは、半分嘘で、僕も柱を細くしようとしたり黒く塗ったりすることは良くある。けれども、それは、いないことにしようとしているものの存在を、むしろ認めようとしてるのだと思う。

いや、認めてほしい。です。


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