動詞としての生きる
おそらく、最も重要なことは「中心」や「固有性」「私」または「システム」といったものに問いが回収されないということだろう。
解けない問いを生きる。
この時はまだぼんやりしていたけれども、動詞としての生きるという言葉に多くのことが凝縮されている。問いを解くわけでも手放すわけでもなく、問いを生きる。
今日、オープンハウスカゴシマのシンポジウムで倉方さんの生きた建築ミュージアムなどについての話を聞いてきたんだけど、そこにあるのは建築を通してさまざまなことに出会うことだった。
普段は役割で分断されている人と人が出会い、地域や歴史に出会い、多様性そのものに出会う。
生きる、ということは出会いを生み出し続けることではないか。
そう考えると生きた建築、とか、まちが生きているとかいう表現も腑に落ちる。
少し前に出会う建築というものを書いたけれども、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」というのは案外、的を得ているのではないか。
僕自身が生きているか、というのも大切だけれども、それと同じかそれ以上に、僕がつくる建築自体が生きているか、出会いを生み出せているのか、に責任を持つことが大切だと思う。プロである、とはそういうことなんじゃないだろうか。
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