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俺は舞の海だ。と自己暗示をかければ設計がうまくなる。という話ではなかった話。

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。
相撲と無知 行為・知覚は絶えず無知に対して行われる。無知を餌にする。

このころから始まった自分の流れに対する流れは今も止まらない。そう感じている。

しかし、無知を餌にする相撲とはどんなものだろうか。他のは何となくイメージが頭に残っているけれども、これだけは思い出せない。

この本を引っ張り出してくるのは少し我慢して、無理やり想像してみると、最初に頭に浮かんだのは「くるくる舞の海」である。

舞の海は土俵空間にくるくると舞いながら無知という名の餌をまく。相手は、その餌につられて、言い換えると、自らの知覚欲求に耐えきれず、そこに無意識がフォーカスしてしまう。そして、知らず識らずのうちに流れに飲み込まれ、くるくる廻り、気がつくと土がついている。

そう、舞の海は無知の空間配置と流れによって相手の無意識を操作して相撲を取るのである。それが彼が「レイアウトの魔術師」もしくは「土俵際のアーキテクト」と呼ばれた所以である。

当然、そのイメージは建築にも通じる。「俺は舞の海だ。俺は舞の海だ。」と暗示をかけ、その手さばきのイメージを自分に重ねれば、きっと設計がうまくなるに違いない。

―――とか、そんな感じではなかろうか。そう思い、本書を手にしてみた。

書いてたあったのは、三年ほどかけて靴下と魚をみてきた、という話だった。他の道のプロが、アフォーダンスの眼鏡を通して書く話は、どれも面白くエキサイティングである。


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