おいしいふるまい 補足

■『WindowScape 窓のふるまい学』2010 塚本由晴
『なぜふるまいなのか。20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。[…]窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか』(塚本由晴)

■『応答 漂うモダニズム』2015 塚本由晴 他
『ふるまいと言うとつい人のふるまい、慣習や儀式などを想像してしまうが、実は人間以外のモノにも様々なふるまいが認められることが肝要である。モノのふるまいというのは、自然の要素(光、風、熱、煙、湿気、雨)のふるまい、気候のマクロなふるまい、あるいは建材として用いられる材料のパフォーマンス、時には生き物のふるまいである。ヴァナキュラー建築の建築言語やタイポロジーは、記号の体系で完結しているのではなく、こうした「人やモノのふるまい」で包囲されている。そこに集められたふるまいを尊重し、それらが互いに祝福するような均衡をもたらすところに落ち着いたかたちなのである。』(塚本由晴)

■『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』2012 塚本由晴
『その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。[…]詩の中の言葉は何かとの応答関係に開かれていて生き生きとしている。そういう対比は建築にもあるのです。窓ひとつとっても、生き生きしている窓もあれば、そうでない窓もある。建築には本当に多くの部位がありますが、それらが各々の持ち場で頑張っているよ、という実践状態の中に身を置くと、その空間は生き生きとして楽しいのではないか。それが、建築における詩の必要性だと思っています。』(塚本由晴)
これらの氏の言葉は生態学をベースにしていると思われ、建築における生態学的視点の可能性に関して多くの示唆に富んでいる。

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