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「目の前に相手がいるのにツイッターとはけしからん」

先進国でプロと呼ばれ、知識も豊富と思われている人が必死に到達しようとしているもの、なかなか手にできないものを、ただの生活者が手にしている。

1984年に日本でも出版され一種の古典ともなっている『建築家なしの建築』という本がある。

そこには建築的な概念を与えられていない、にも関わらず魅力的な土着的建築が集められている。

なぜ、私たちは建築に概念を与えることなしに魅力的なものがつくれない(と思っている)のだろうか。

それは、生活(住まうこと)と生産(建てること)が資本主義によって分断されてしまったがために、それらをつなぐための道具が必要になったから、と言えそうだ。では、私たちはただ、建築家なしの建築に憧れることしかできないのだろうか。

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10年ほど前、ツイッターが「つなぐための道具」としての新鮮や驚きとともに受け入れられていた頃、オフ会なんかで目の前に相手がいるのに、わざわざ画面越しにツイッターでやりとりする、というようなことが起こった。

今でも、ズームでトークイベントをしてるその最中に、トークゲスト同士がツイッターで別に議論を交わしている、みたいなことが起こっていたりする。

これは、その社会や環境内の既存のつながりで欠落しているチャンネルを「つなぐための道具」としてのツイッターが補った、もしくは新しいチャンネルを作り出した、と言える。オフ会などで水面下で流れている投稿は、目の前の相手だけではなく、無数の人に開かれていて、目の前に見えているチャンネルとは異質のものなのだ。

もしかしたら、先の建築家なしの建築は、生活と生産のつながりがシンプルで数少ないチャンネルで事足りていたからこそ成立できた、一つの「つながりの道具」の形なのかもしれない。逆に言えば、シンプルで牧歌的なつながりが可視化されているから魅力的に感じると言えるだろう。

しかし、今はそれが成立しないほど生活と生産のつながりは複雑になっているし、当然そこで必要とされる「つなぐための道具」も変わってくる。

とすると、建築家なしの建築は魅力的だ、とただ憧れることは、オフ会で「目の前に相手がいるのにツイッターとはけしからん」と言ってるだけの人と変わりがないのではないだろうか。

「いや、それはそうかも知れんけど、違う世界が広がるからちょっとやってみ。」

ツイッターが新しい質のチャンネルを開いて人々をワクワクさせたように、新しい概念が「つなぐための道具」として新しいワクワクを生み出せるとしたらそれは素敵なことだろう。

そう考えると、「なぜ、私たちは建築に概念を与えることなしに魅力的なものがつくれないのか」という問いに一つの前向きな答えを出せやしないだろうか。

もちろん「対面が一番」というのもありだと思うし、建築家なしの建築はやっぱり魅力的だけれども。


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