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Why なぜ/知覚

なぜつくるのか。これは一番根源的な問いだと思われる。生態学の視点はそれに対していくらかでも応えてくれそうに思えた。

おいしい知覚

おいしい料理、もしくは料理がおいしいとはどういうことだろうか?
味が良いことや、彩り、誰と食べるか、どんな状況で食べるのか、その料理の背景にある物語や風習など要因はいろいろと考えられるし、楽しくわいわいと食べる時もあれば、静かに深く味わうこともあるだろう。

いろいろな「おいしい料理」が考えられるが、どの場合もそれによって直接的に、何らかの意味や価値が見出されているように思われる。このように「直接的に何らかの意味や価値が見出だされること」を「おいしい」と呼ぶこととし、おいしい建築というものを考えてみたい。

では、おいしい建築、もしくは建築がおいしいとはどういうことだろう。
ここでもいろいろな事が考えられるが、建築が人に知覚される存在だとすると、おいしい建築とは「それによっておいしい知覚が可能となるもの」と仮定できるように思う。その仮定が正しいとすると、「おいしい知覚」を考えることによって、おいしい建築に近づくことができるはずである。

(そういえば昔(1982年)糸井重里による「おいしい生活」という有名なコピーがあった。ここで使おうとしている「おいしい」のニュアンスは「おいしい生活」におけるそれとそれほどずれてはいないように思うが、ここでの「おいしい」は「直接的に何らかの意味や価値が見出だされること」の単なる置き換えとして捉えて頂きたい。)

また「おいしい知覚」という言葉は「なぜ、なにを、どうつくるのか」についてこれまで考えてきたことを、すっぽり納められるような懐の深さがある。

ここからは「おいしい知覚」をキーワードに、なぜ、何を、どう、の部分に分けて書いていきたい。

ただし、ここで書くことは多くは誰かの発言をベースにしたものであり、オリジナルな考えとは言いがたい。

この論の目的はオリジナルな方法を提案することよりも、これまで学んできたことを生態学の知見のもとに相対化し、設計に関わる環境の中に知覚される対象として再配置(re-layout)することにある。

なぜつくるのか

なぜつくるのか。これは一番根源的な問いだと思われる。

私の場合、大人として責任の持てるものを次の世代に引き継ぎたいからであり、それによって人に何らかの意味や価値を提供したいからである。それができれば嬉しいし、出来なければ苦しい。単純なことだが、やればやるほど「それを為せた」と思えるところまで届かせるのは難しいと思えてくる。
そんな中、おいしい建築、すなわち「おいしい知覚を生じさせるもの」はそれに対していくらかでも応えてくれそうに思えた。

では、なぜ知覚なのか。それは知覚の3つの面から説明できる。

知覚の基礎性

一つは知覚が人間が生きていくことの一番基礎にあり、それ自体が意味や価値を内包するものだからである。

人間は、知覚と行為によって能動的に環境と関わることで生きている。言い換えると、環境から意味(環境が提供する情報)と価値(環境の利用によって得られるもの)を探り、それを利用することによって生きている。

知覚と行為は生きるための基礎であり、それゆえ人間は意味と価値を求める。またそれに付随して生じた感情は再び意味と価値を求める動機に取り込まれる。

知覚は意味や価値とそれに付随した感情(例えば悦び)が内在するものであり、それは「生きること」そのものを讃えるものでもある。知覚することは生きることの基礎であり、そのままで悦びなのである。

知覚の直接性

それと関連するもう一つの理由は、知覚は直接的なものだからである。

知覚は感覚器官が受動的に受け取った刺激を、脳が再構成して生じるような神経系統の処理の結果ではなく、環境にある情報を直接的・能動的にピックアップする過程である。

環境との関わりが直接的である、ということの中にはある種のリアリティが含まれており、それゆえ知覚は大切なものに思われる。

先日、実家である屋久島に帰り、あたりを歩きまわって知覚について考えた。

そこでは都市部の風景に比べ、明らかに環境の情報が多様で複層的であり、それはミクロなスケールからマクロなスケールに渡って密実なものであった。情報量が多いということは一見煩わしいことに思えるが、屋久島で受けた印象では、それはとても心地よいものであった。その理由は情報の質にあるように思われる。

例えば、環境に存在する情報の質を考えた時に、都市部では理解する必要のある概念的情報が多く情報の直接知覚性が低いと言えそうである。

一方、屋久島では直接知覚できる、いわば生態学的情報と言えるものが多くを占めており直接知覚性が高いといえる。

このことから、人間は情報の直接知覚性が高いことに対して、何らかの悦びを感じるのではないかと推測できる。人間は直接知覚することに対し、リアリティのようなものを感じるのではないだろうか。

また、建築は直接知覚される存在であり、そこに知覚される情報を埋め込むことが可能である。

だとすると、それは建築が直接知覚されるそのことによって、人間の悦びやリアリティにアプローチしうることを示している。

知覚の公共性

そしてもう一つの理由は、知覚の対象となる情報が埋め込まれているものは、ある種の公共性や社会性を持つ、言い換えると個人や時間、空間などさまざまなもの超えることを可能とするメディア(媒体)となる可能性を持つ、からである。

人間は世界とよりよく切り結ぶことを動機として取り込みながら進化し、それを自分達の環境の中にさまざまな形で埋め込むことによって集団的にも進化してきた文化的・歴史的存在である。

人間は知覚の公共性を基盤として、人とコミュニケーションし、社会的・公共的な環境を共同で形成してきた。

また、人々が変転し続ける世界において、能動的・創造的に生き続けていく可能性を担保すること、がある種の倫理であるとすると、それはこのような社会的な営みによって達成しうる。それは知覚の公共性が倫理の可能性を内包することを意味する。

さらに、知覚の公共性は人と人や社会とのつながりを基礎とする自己感、自己のリアリティのようなものを醸成する基盤でもある。これに対し建築は継続的に存在しうるものであるため、知覚を媒介する大きな役割を担っているといえる。それは建築が倫理的でありうる存在であり、大きな責任を負っている事を示している。

知覚を開いておく

なぜ、知覚なのか。

それは、知覚の基礎性、直接性、公共性が、人間の悦びや生きることのリアリティ、社会や文化といったものに建築がアプローチするための足がかりを与えるからであり、そこに意味や価値、倫理といった建築することに対する肯定的意味が見出だせるからである。

しかし、この根本的な「なぜ」という問いとその答えはそれでも絶えず開かれていなければならない。そうでなければ知覚的なふるまいの扉を自ら閉じてしまうことになる。

なぜつくるのか。それは最後は目の前の環境、現実の中にある。

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