おいしい素材 補足

■『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』 1979(翻訳1985)J.J. ギブソン
『環境の物質は識別されることが必要であり、識別するための有力な手段は物質の面を見ることによってである』(ギブソン)
ギブソンは環境を媒質、物質、面の3 つの要素で示し、知覚される要素として面のレイアウトと特質に注目した。そして、面の生態学的法則として配置、粘性、凝集性、構成要素・肌理、形状、照明、吸収、反射、色などが動物に何をアフォードするかを整理している。ここでも動物が生きていくための意味として環境を記述する態度が徹底されている。 

■『レイアウトの法則 -アートとアフォーダンス』 2003 佐々木正人『知覚は肌理と粒を同時に知る、そういう働きだと思う。』『その物という感じのない知覚はもはや知覚ではないのではないか。知覚が頑強なのは肌理と粒に同時に定位しているからではないか。知覚は一つしか見るものがない場合にも肌理を見てしまうのである。』
『人工物は自然にさらされ肌理に近づく。一つの人工物は粒に近づく。物への愛着というのは粒への感じなのではないか。』(佐々木正人)ここでは愛着と粒への「感じ」を結びつけている。知覚が何らかの感情と結びついているのは実感として納得できるものだろう。

■『はじめての禅』 1988 竹村牧男『私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。』『ここで道元は、古仏が「山是山」と言ったのは「山是山」といったのではない、「山是山」と言ったのだ、と示している。結局、山は山ではない、山である、といっていることにもなろうが、否定と肯定が交錯してなお詩的ですらある。』
『その場合、桜に対し桜の語を否定することは、実はその前提の主-客二元の構図をも否定することにつらなり、無意識のうちに培われた自我意識を否定していくことをも含んでいるであろう。[…]つまり、桜は桜でない、と否定するところでは、自己も自己でなくなり、逆にそこに真実の自己が見出されうるのである。』
『我々は、既成の言語体系のままに事物が有ると固執することが、いかに倒立した見方であるかを深く反省・了解しなければならない。そして存在と自己の真実を見出すためには、言語を否定しつくす地平に一たびは立たなければならないのである。』『この絶対矛盾に直面させるやり方は、言語-分別体系の粉砕をねらう禅の常套手段でもある。そのことがついには、真に「道う」体験に導くであろう。』(竹村牧男)
禅の思想とギブソンの知覚理論は重なる部分も多いように思う。このことは直接知覚の大切さが歴史ある知の体系にも裏付けられている、ということではないだろうか。

■『定本柄谷行人集2~隠喩としての建築』 2004 柄谷行人
『固有名がどのラング(共同体)にも内面化されないということは、それが「社会的」であることを意味しているのではないのか。固有名は、自己あるいは共同体のなかに決して内面化できない他者性・偶然性をはらんでいる。』
『言語学者が排除する固有名においてこそ、コミュニケーションの「社会性」が露呈するのである。』
『単独性は、いわば「社会的」なのだ。』(柄谷行人)
この本で初めて得体のしれなかった「社会性」という言葉に触れられた気がした。それまで「固有性」と「社会性」という言葉が結びつくとは考えたことがなかったが、これによって今の時代における固有性を求める価値が少しイメージできるようになった。

■素材に対して誠実である。2008 オノケンブログ
『新建材でできたものの多くは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。 自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。』(太田)
この時はDNA に刻まれていると書いたが、そこに何らかの意味や価値を見出す知覚のはたらきがあるのだとすれば、あながち間違いではないように思う。

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