おいしい都市 補足

■『レイアウトの法則 -アートとアフォーダンス』 2003 佐々木正人
『建ち方というのは、ヴォリュームの形状と隣地までの距離の相関とか、道路や平や庭と建物の関係のようなものを指す、何気ない言葉なんですけれども、個別的でありながら、同時に横に繋がっていける共通性を扱うことができる次元です。そうしたものの取り扱いを通して、その場所や集団が内面化しているある種の規範に触れることができる。これが、風景や都市空間の社会性を構成するわけです。だから立ち方を蝶板として「都市」と「建築」の両者が定義しあうようなものになる。つまり、両者を架橋するような論理が組み立てられるはずです。』(塚本由晴)
建ち方とは都市における建築その他のレイアウトである。それによって都市のあり方を調整するような関り合いの方法を考える必要があるだろう。

■『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』 199(翻訳2010)エドワード・S. リード現在のものづくりは、不確実性に対する恐怖が支配的で機械的なものになっており、直接経験が剥奪されたものの集合体である都市は技術や経験の蓄積としての集合的記憶を見失いつつある。それに対し設計に関わることでできることは、不確実性に対する恐怖にあがない生きられた経験を取り戻すべく努力することと、設計を新たな集合的記憶への道を示すような” 技術” として捉え直し風景へと埋め込むような可能性を模索することだろう。

■『コモナリティーズ』2014 塚本由晴 他
『このように複数の建物の観察を通して浮かび上がる、個体の違いを超えて共通する特徴は、建築のタイポロジー(類型)と呼ばれる。しかし、そのタイポロジー理解は研究者のそれであって、コモナリティーを考えるときには、そこに住む人々が、建築の方を共有しているということである。つまりタイポロジーが成立しているということは、自分達の地域や街にはどんな建築の型がふさわしいか、わかっている人々がそこにいるということである。そういう人々は自分たちの街に誇りをもっていて自信に満ちている。』(塚本由晴)
タイポロジーは蓄積された集合的記憶である。それは個人や時間を超えた先にあり、タイポロジーが定位を促進し、定位がタイポロジーを導く、といった好循環が必要である。それは建築を大きな時間の中にレイアウトすることを求める。

■『長谷川豪│考えること、建築すること、生きること』2011 長谷川豪『タイポロジーは「同じであること」に価値を見出す方法だ。[…]他と同一性を認めながら新たな可能性を示すことは、都市に生きる環境をつくるうえで重要なものなのではないか。「同じであること」に触れることではじめて、ひとつの建築をつくることが都市をつくることに繋がり、都市を生きることに関わることができるのではないか。有象無象の、取るに足らない種々雑多ななかに建築を建てるときに、他との差異に開き直らないで、その雑多なものと同一性に注意深く目を向け、いまこの場所に空間をつくるということはどういうことか、毎回、その都度思考すること。そうした「同じであること」への意識、あるいは所作が、有象無象の都市のなかでの生き方だといえないだろうか。』(長谷川豪)
氏は「余白のプロポーション」によって建築を都市との関係性まで拡げる。また、都市の中でのあり方を、都市と応答を繰り返しながら回答するような態度が、都市を生きたものとして動かし続けるのかもしれない。

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