「強い自我」ほど脆くなる矛盾

わたしたちの自我は、「強い心」「傷つかない精神」のような揺るぎなさを身につけようとすればするほど安定を失い、苦痛に見舞われるという逆説的な性質を持っている。

このような試みは「合理的な自我」や「揺るぎない主体」といった理想的精神の存在を前提にしており、その限りでは「衰弱した自我」を癒し、強化すれば精神的な不安定に悩まされることはなくなる。ところが、精神分析的な主体の見方では、神経症はむしろ自我が「強すぎる」ために起こるとされる。



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このふたつの立場が前提にしている主体は上のようなものである。社会活動に問題ない「健全な自我」の実在を前提にしている医療的な視点の自我は、精神の健全性の「損なわれた」患者は「正常な精神」を持つ治療家のような人格に同一化することで回復が約束される。

一方で、精神分析的な「自我」はもっと空虚な実体であり、その中心にはただ「穴」がある。あらかじめ欠如している主体は、その欠如を埋めようとして他者に同一化しようとするが、このような試みが反復され、自我は玉ねぎの皮に例えられるような多層構造物を形成する。この皮を剥いてゆくと、最後には何も残らない。しかも精神分析は、その皮を剥いてゆくことを求める。

この方向性の違いは、西洋哲学的自我と東洋哲学的自我のめざす地点の違いになぞらえて考えることができるだろう。


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