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ポリティカル・コレクトネスに付帯する憂鬱のリスク

「名誉の人」、すなわち騎士の名誉は、「能動的に何を行ったか」ではなく、「受動的に何をこうむったか」、何に遭遇したかに基づいている。はじめに論じた一般的に通用する名誉の原理にしたがえば、名誉はもっぱら「本人自身」の言動に左右されるものであったが、騎士の名誉は、誰か他の人に左右される。したがって騎士の名誉は、誰彼なく他人の舌先にかかっている。誰かが口に出しただけで、その瞬間に名誉は完全に失われる。
(「幸福について」ショペンハウエル)



表現や言動がいかに無意識的に他者を害し、あるいは有害な視点を助長し得るかという議論に対して、たとえば表現規制反対派と推進派と定義されるような両極端の立場を同時に納得させる結論を導くことは難しい。なぜなら、誰かが誰かの名誉をどの程度傷つけ得るかという問題に関しては、個人的な視点に基づいた結論と、社会や倫理的な視点に基づいた結論の少なくともふたつが必要となるからだ。そうして、私たちがその実例を数限りなく目撃してきたように、極端な立場の両者においては以下の2つの結論が導き出される。


(1)他者は個人の名誉を無限に傷つけ、回復不可能なまでに破壊し得る。したがって、名誉を傷つける他者は無限大の罰を受けて然るべきである。

(2)個人の名誉がどこまでも脆弱なもので、いかなる表現や言動によっても傷つき得るなら、むしろ害することを避ける試みは不可能である。


たとえば(1)を「ポリティカル・コレクトネス(以下P・C)無限推進派」と呼ぶとしよう。彼/彼女らの主張にしたがえば、いかなる微小な表現の問題も、閉じられた環境で発生した限定的な問題も全ての個人に対して有害たり得るものとして開かれているので、逆に言えばその全てを排除しなければ安全ではないということになる。

この視点を拡大していった先にどのような問題が発生するかというと、実際にしばしばそれが見受けられるように、SNSやネット上でいつまでも改心せずに差別発言を繰り返す矮小な人間がいたとすれば、それを衆目のもとに晒し、問題であるとして共有し、全員の力によって改心させるか、あるいは抹殺しなければ誰一人として自己の権利が守られていないということになる。そして、差別や偏見を持つ人間を根絶することが不可能である以上、全ての常識ある個人はこういった存在に対しての無限の闘争に参加するか、それとも看過して悪しき風潮に加担する罪を背負わなければならなくなる。

これはつまるところ、もし差別者の目的が個人を害するということであったなら、その目的は意図したより最大限に有効に発揮されるということであって、個人への害を最小化するという本来の意図が転覆する結果になり兼ねないということである。



名誉を傷つける行為をできるだけ取り締まるためには、より小さな言動が、そしてより小規模の問題が多くの個人を害するという前提を立てなければならない。その前提は、実在する問題を減少させるという実際的な進展の面では全ての個人に利益をもたらすが、その代わりに、”問題が解決されない限りは勝手に回復してはいけない個人の名誉”という不利益も同時に引き起こす。

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