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止まってから今までを特急で振り返る6

2012年7月~2016年7月 日本語学校と社会人学生

 国内での教師経験と、日本語学校の内情・実情が知りたくて、応募し、非常勤として雇ってもらう。

 ...はずだったのだけど、授業準備などもして、担当するクラスの授業開始前日だったかな、事務方が足りないから、手伝ってくれないか、との打診がくる。その時はなにやら、面白そうっすね、いいっすよって感じの軽いノリで引き受ける。恐らくこの時も、声がかかる時っていうのは恵まれてることだし、知らない世界には経験しか待ってないんだから、極力乗っかるという性格が出たと思われる。

 日本語学校の多くは現地仲介会社から学校に入りたい人を紹介・斡旋してもらって情報を買うことが多いのだが、この学校は数少ない、現地での直接募集をしていた。だから、現地で選抜して、書類を作って、入管に出すという仕事が学校の中にあり、それを私はさせてもらう。もちろんその他にも学校運営に関わるこまごまも。だからとても幅が広く、実に多くのことを学んだ。とてもとても。

 そして、現地担当として、私にはベトナムのホーチミンが割り当てられたのである。これが私がホーチミンに関わるきっかけ。

 忙しい時は1~2か月に1回、ホーチミン(+ときどきハノイ)に入る。ほぼ事務所とホテルと空港だけにしか行かない出張。そして他にもフィリピンやロシア、その他英語圏からの問い合わせも受けて対応してた。その中ではフィリピンにも何度も行って、でもほとんど仕事で缶詰のため、街を見ることはできなかったけど、‌人物面接はするわけで、お国柄や雰囲気は見ることができた。

 以前、市役所に嘱託として入ったことから、行政機関に対するある一定の雰囲気は感じていたが、入管行政も少し似た空気を感じた。そして、地方入管だったこともあり、時間をもらって話す機会もいただいたりして、本当に勉強になった。

 また、学校のほうも、季節のイベントだの、学生の受け入れや卒業とかだけではなく、警察対応もあったし、校舎の新築の時期も重なったので、やることはとても多岐に渡ってあった。今までの経験のフル活用と、新しい物事の吸収と対応、だからほんとにフルだったような気がする。

 結果的に4年お世話になり、名目上は理事の名前もいただいたが、辞めるタイミングは「やっぱり外国で生きたい」だった。

 そうそう、大学のほうは3年次編入で2年勉強したが、履修単位はギリギリで、試験で落としちゃったものがあり、半年延ばしての卒業となった。そして、その頃はまだ仕事がてんやわんやだったことから、じゃ、どうせだったら修士課程も行っちゃうか、ということで、受験し、無事に入学。大学の時の生活と違うのは、1か月に1回は千葉に赴き、ゼミに参加していたこと。仕事も忙しかったけど、研究も進めなきゃいけないし、単位も取らなきゃいけないし、ゼミも参加しなきゃいけないし、あちこち動き回った。

 ということで、選択した履修科目も無事に取れて、論文も出来上がり、発表もして、2年で修了を迎える。博士課程の進学欲求は全くなかった。

 勉学が一段落したタイミングは、仕事も大体全貌が理解していたころだったというのも重なり、このタイミングで「やっぱり外国で生きたい」が出たのだ。そして、最後になるだろうなと思ってJICAに応募。

 今、思い出したが、以前応募したときは健康診断結果はグレーで、競合かなにかで2回落ちたんだった!この時が、1次の健康診断結果で、血液関係の数値で引っ掛かって、落ちたんだ。そうだ、そうだ。

 ということで、やはり自力で探すことにし、以前お声がかかっていたボリビアにも打診するも、その時はタイミングじゃなかった。そして、ベトナム・ホーチミンの求人があって、ある程度慣れた街とは言え、住んでいないし、もっと知ってみたい思い、とある日本語学校に応募、面接を経て採用される。

 ということで、ベトナム・ホーチミンでの生活については次に。

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