見出し画像

「下書き」の共通点

寅さんの映画で愛しのマドンナ・リリーは「あぶく」のような人生だ、と自らを例えるシーンがある。根無し草の生活は無情なもので、どれだけもてはされても、本人にしかわからぬ孤独があるという。華やかで美しい女性のつぶやきに、なるほどそういうものなのか、と観ているものは、驚きとすこしの寂しさを覚える。

それに対し寅さんはそんなリリーの本音を受け止めつつも、気恥ずかしさからか、上品なもんじゃない、そうだ、オナラのようなもんだな、と返し、リリーからぷぷっと笑いをとる。

なんとも象徴的な会話シーン。

noteに書こうとする「下書き」もまた、こう「あぶく」のようなもんで、文字に定住する何かがない。いや、やっぱりそんな上品なものじゃないか。「オナラ」のようなもんで。書こうと思っている話は数あれど、実際に文字になる機会はすくない。

やはり「おもいつき」は良くない。書く前に構成だったり、オチだったり、テーマだけでもいいからなにか膨らませるきっかけはないものか。

それとも、せめて「あぶく」のような上品なものになってから、と夢見ているからいつまでも下書きに眠ってしまうのかもしれない。そもそも、あってもなくてもいい出来事を文章にしているのだから、気にせず人目に触れさせたらいいのかもしれない。

下書きに行ってしまう記事の共通点とはなんぞ?と考えてみた。月日が経てしまうだけで、数日もしたのちに見返したそれは、別人が書いたものに読めることだってある。


Twitterやってます!

いいね&フォローお待ちしてます!


この記事が参加している募集

熟成下書き

note感想文

ここまでお読みいただきありがとうございました。サポートいただいた分は、映画の制作費や本を買うお金に充てたいと思います。