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welcome to 30歳 for 私

皆さんこんにちわ。

来る24/3/10でついに30歳ということで、一旦ここまでの人生の振り返りをしてみようと思います。

いやあ〜30歳ってあっという間ですねえ。
30歳になったら経験も知識もある程度カンストなのかと思ってましたが、まだまだ学びが沢山の毎日です。
圧倒的に自己満足のために書くだけなので、もしお時間があればお付き合いください。


幼少期〜小学生|一族の初子供及び初孫として甘やかされまくったクソガキ

1994年3月10日(木)、静岡県沼津市に誕生しました。
当時オトンは26歳、オカンは24歳かな恐らく。今の自分よりも全然若いのに本当にすごい。

小野田家の長男として生まれ、また初孫だったため、それはそれは可愛がられたようです。
おじいちゃんやおばを中心に、欲しい物があれば大体買ってもらえて、相当甘やかされておりました。

とにかく家が大好き&マザコン&人見知りで、幼稚園や小学校に行くのが億劫でした。
毎日家を出る前、オカンに「今日帰ってきた時いる?」という確認をしていたことを今でも覚えています。
特に習い事も何もせず、スポーツも苦手で、休み時間は教室で絵を描き、放課後は友達と家でカードやゲームをやる陰キャでした。
あんまり頭は良くなかったそうです。
小学生なりたてのときは、校庭で一人で遊んでいて、先生に一緒に遊ぼうと言われると「風さんと遊んでるから大丈夫」というくらいの奇人児だったそうです。

また、2歳のときに妹が、6歳のときに弟が生まれました。
今は家族仲良しですが、当時僕は妹ととにかく仲が悪く、両親はガチで別々に暮らすことを考えていたこともあったそう。
弟のことは捨て子という刷り込みをして、家族ごっこをすると毎回乞食役しか与えないというハリー・ポッターで成敗されるようなクソお兄ちゃんでした。
学校では目立たないのび太みたいな陰キャ、家では親や兄弟に偉そうな内弁慶という、腐ったクソガキでした。

あとは何でもDIYで作るおじいちゃんの影響で、ブロックなどものを作って遊ぶのが好きでした。
また唯一やった習い事は英語教室で、好きな子が通っているという理由で、同じ英語教室に通い始めるという不純な理由でした。
好きになるとどんな手段を使っても真っ直ぐという部分に、今の自分に通ずるところを感じます。

ちなみに実家はまあまあ貧乏で、妹が生まれた時オトンは手取り15万円で家族を養っていたそうです。
それでもキャンプや車中泊でディズニー等、色々なところに連れて行ってくれて、思い出は沢山です。
このことを聞いたら、お金なんて無くても何とかなるんだなあと思いました。
お金が無かったおかげで、今も家族仲良しなんだなと思います。

結論:三つ子の魂百まで、そしてお金が無いほうが良いこともある

by30歳手前の私

中学生|部活、いじめ、笑いを取る楽しさ、初めての彼女など、色々あって脱陰キャ

中学生になり、部活が始まりました。
小学生まで何もしてこなかった自分は、だいたい皆スタートラインが同じテニスを選びました。

これまで習い事ニートだった自分にとって、放課後や土日を献上しての部活は大変でした。
大変だったけど、根性が叩き直された気がします。
全く誇らしい結果は残していないけれど、中3まで頑張りました。

また中学校は先輩方にヤンキーが多く、治安の悪い学校でした。
そのため1年生の時は毎日ヤンキーに絡まれないかビクビクしながら過ごす毎日でした。
テニス部はヤンキーの溜まり場になって絡まれることもありましたが、何とかボコされずに済みました。
中学1年生にとってヤンキー先輩は本当に恐怖でしかありません。ヤンキー反対。

また中学2年生の時に、同級生からのいじめにも遭いました。
前の日まで仲の良かった友達が急に自分のことを無視する感じ、今思い出しても胸がキュウ〜となります。
無視だけでなく暴力もありました。毎日学校に行くのが怖くて、不安で仕方ありませんでした。
毎日本気で今日帰ったら死のう、と思っていました。
当時住んでいたのは団地の5Fだったので、飛び降りれば死ねるなあと思っていました。
でも家族の顔を見ると、怖くて死ぬことは出来ませんでした。
また親に相談しようにも、いじめられていることが惨めで、なかなか言うことが出来ませんでした。

まあそんな状況でしたが、それでも負けるのが嫌で、休まず登校しました。
ある日流石に限界になって親に相談をしました。
惨めさとか、安心とか、いろいろな感情がぐちゃぐちゃになって泣きまくりました。
親はすぐに担任に相談してくれ、担任は相手らを本気で怒ってくれて、いじめの日々は終わりました。

たった1ヶ月間のことでした。それでも自分にとっては永遠にも感じられました。
ちなみに次はいじめていた側の人間の一人が、いじめられていました。
その次は同じグループのまた別の人間がいじめられていました。
マンション管理の役員みたいに、ただのローテーションです。
よくある中学生のいじめだなあと今思い返したら思います。

この経験は自分の中でも今でも強く残っていて、大事な経験です。
人の痛みとか、いじめのクソさとか、本気で死にたいという感情とか、周りにいてくれる人の大切さとか、色々なことを身を持って学びました。
だから今も、人から嫌われないかな〜というのは結構気にしてしまいます。
また、そういう人が出てきたらいつでもぶっ飛ばせる強い人間でいたいと心から思うようになりました。
今も格闘技を続けている理由の一つです。

そして中3になり、クラスも変わり、その連中との付き合いを辞めて、新しい友だちと仲良くなりました。
友だちのおかげで中3の生活は最高に楽しくて、日々友だちとくだらないことで笑わせ合っていました。
中3を通して人を笑わせることの楽しさを知り、人前に出たり目立つのが好きになりました。
クラスで一番面白い人にも選ばれて、しょぼいけど当時の自分にとっては栄光でした。

また中3で初めての彼女も出来ました。
彼女は他の中学校の同い年の子でした。
同じ学校の友だちが通う塾に可愛い子がいると聞き、受験生で夏期講習を受ける場所を探していたのもあり、すぐさま入塾しました。
その子は話に聞いていた通り、今まで会った同級生で一番可愛く、一目惚れしました。
頑張ってメアドを聞いて、毎日メールして、ある日メールで告白して付き合いました。
ただデートは夏祭りにも行ったくらいで、まだ付き合ったこともない当時の自分は何をすれば良いかも分からず、3ヶ月で振られました。

それでも諦められなかった自分は、彼女の誕生日にプレゼントを渡し、ミニストップの駐車場でまた告白をしました。
そして見事復活愛、セカンドシーズンではキスにもたどり着きました。
まあただセカンドシーズンも3ヶ月で終了しました。

あと中学生でポルノグラフィティにハマったのをきっかけに、ロックが大好きになりました。
勢いでギターも買いました。
音楽の素晴らしさを教えてくれたポルノには今も感謝です。

という感じで、酸いも甘いも色々なことがあり、休み時間教室にいる系陰キャの小学生から比べたらかなり陽キャになったのが中学生です。
特に中3が無ければ、今の自分はいないなあと思います。

結論:山あり谷ありで人の人格は作られる

by30歳手前の私

高校生|部活と遊びと勉強と童貞卒業

高校は受験勉強のかいあって、無事公立の第一志望に合格。親孝行者です。
自称進学校で地元での学力は、上の下くらい。
1つ上の代には、今をときめきまくる俳優の磯村勇斗さんがいます。
それ以外は全くパッとするものはありません。
高校はとにかく平和で、ヤンキーが一人もいませんでした。
僕のように目立ちたがり屋の人もいないし、そういう人をいじめる風潮も無いし、伸び伸びと過ごしました。

部活は中学に引き続きテニス。軟式から硬式になりました。
高校時代はとにかく部活が大変でした。1に部活、2に部活。ブラック部活でした。
毎日外練習なので肌の色という点でもブラック部活でした。
部活はしんど過ぎて未だに夢に出ます。もう二度とやりたくありません。
ちなみに高校時代も引退まで頑張りましたが、特に輝かしい実績はありません。
普通に負けて普通に引退しました。
だから部活で実績のある社会人を見るとすごいなあと思います。

そんなブラック部活と並行して、友だちや恋愛といった遊びも全力で楽しみました。
友だちと話すことはくだらないことか恋愛。男子高校生の頭は麩菓子くらいに軽い。

友だちとの間では同校の可愛い先輩/後輩と絡むか、他校の可愛いこと絡むかが至上命題でした。
当時、流行っていたmixiや前略プロフィールの力もあり、他校生との出会いも結構ありました。
高校に入ってからは合計5人くらい付き合ったと思います。
ほとんどが2−3ヶ月の短命でしたが、一人の子は1年半くらい付き合いました。

mixiきっかけで知り合った同い年でシングルマザーという、なかなか希少な経験でした。
高校生ながら、本気で人を好きになる感覚を知り、恋愛の大変さを知りました。
高2夏〜高3秋は、この彼女と過ごす時間が長かったように思います。
住む世界が全く異なる人間同士が付き合い、仲を深めていくのは今思うとなかなか感慨深いものです。
若さゆえの嫉妬等でいがみ合うことがほとんどだった気がしますが、色々なことを教えてもらいました。
ちなみに高2の夏に童貞は卒業しました。

あとは部活とは別で、バンドを組んで文化祭で披露しました。
ここでも人前で何かをやって目立つことの楽しさを改めて感じました。

そして高3になり、受験生となりました。
授業は結構寝ていたけど、真面目な性格なのでテスト前に勉強はしており、学年順位は大体20位くらいだった気がします。
ちなみに我が家は兄弟全員、親に勉強しなさいと言われたことが一度もありません。

夏期講習をきっかけに塾にも通い始めました。
ただ遊ぶことも諦められない僕は、夏休みにはプールに行き休憩時間に単語帳を見たり、センター1週間前もカラオケに行って友だちが歌っているときに単語帳を見たり、遊びと勉強を何とか両立させました。
遊びの度が過ぎて流石に親にガチギレされた日もありました。

地方あるあるで、とにかく国公立思考だったため全科目勉強をしていました。
また家も貧乏なので私立なんてあり得ない状態でした。
ただ、冬になり「私立のが楽しそうじゃね?MARCHあたりならいけそうじゃね?」と思い、親を交渉して私立も受けさせてもらえました。
国公立も受かったら私立に行ってもOKという条件だったので、両方勉強しました。
MARCHのことはよく知りませんでしたが、同じ塾のギャル男が青学の赤本を持っているのを見て、「こいつ行けるなら俺も行けるだろ」と思い、青学を受けました。
あとは友だちが受けていたので法政も受けました。

最終的には約束通り地元の国公立も受かったので、青学に行くことに決めました。

という感じで、高校時代は部活という辛酸を嘗め、遊びを謳歌し、受験も上手いこといきました。

結論:全部楽しむ欲張りセット思考が人生には大事

by30歳手前の私

大学生|大学デビュー失敗、世界の広さを知った田舎者

大学は東京、一人暮らしは嫌だったので、最初は新幹線で通っていました。
がしかし、4日でこれは無理だと気付き一人暮らしをすることに決めました。

また高校では我ながらイケてる人材だったので、大学も余裕かと思っていましたが、世界の広さを思い知らされました。
面白い人、おしゃれな人、イケメン、可愛い人、自分の知らない情報、自分とは何なんだと思わされました。
地元がいかに狭い世界だったのかを痛感しました。

また自分は心理学科でそもそも人が少ない、かつほぼ女子率80%超の学科で、入学早々、友達作りが難航しました。
なんとか新歓で仲良くなった他学部の友達が出来ましたが、サークルは軽音サークルを選んでしまいました。
これがなかなかのミスでした。

軽音サークルは内輪ノリがすごくて、また話が合う人が全くおらず、灰色の青春始まったかもなとじわじわ思わされる日々。
言葉を選ばず言うと、陰キャが陽キャを妬んでイキっている感じ。いやでもまじでそんな感じ。
かたやフットサルやオールラウンドサークルに入った友達は楽しそうな毎日。
当時のTwitter(現X)での皆の楽しそうな投稿を見て、やっちまったあああああと思っていました。
そして軽音サークルの6泊7日でホコリまみれのコテージに泊まる、ほぼ軟禁の夏合宿を経て、辞めることを決意しました。

そこから中途入社ならぬ中途入サーをし、フットサルとダンスサークルに入りました。
既に出来上がったコミュニティに入っていく難しさ、気まずさ、分かりますか。
それでも何とか自分のポジションを築いていき、皆と仲良くなることが出来ました。
高校生までは人見知りとか言っていましたが、そんなことを言っていられない状況に置かれ、見事に人見知りは無くなりました。
今は誰とでもすぐに仲良くなれますが、この強みはこの経験を通して出来たなあと思います。

ちなみに大学1年生の頃は地元に帰りまくっていました。何故なら、大学にあんまり友達がいなかったから。
1年生の夏休みには、「あ〜地元楽しい〜もう大学やめようかなあ」とか考えたこともありました。
そんな1年生の夏休みのバイトは、地元の弁当工場やそばやのキッチンの派遣アルバイトをしていました。
どこの国の方か分からないおばちゃんに、ファミマのイカ納豆手巻き寿司の作り方をレクチャーされていました。
また朝まで飲んで工場勤務をして、15分トイレで寝てたらバレて帰らされたこともありました。
灰色過ぎる青春。

そんでまあ、2年生の後半くらいからはちゃんと大学生活が楽しくなりました。
下積みの長い、遅咲き大学デビューでした。
サークルとバイトばかりのよくある大学生でしたが、楽しい大学生活でした。
特にサークルに後輩が入ってきてからは、後輩女子にいい感じにハマり、自分のポジションを確立することが出来ました。
ありがとう後輩。

また自分はとにかくお金が無かったので、池尻大橋にある敷礼0円の家賃4.5万円のプレハブ小屋みたいなアパートに住んでいたのですが、結果そこがたまり場になり、友達とのグルーブ感が深まりました。
お金が無かったのは今では良い思い出です。お金が無かったおかげで皆と仲良くなることが出来ました。
ありがとうプレハブ小屋。

ちなみに大学四年間、一度も彼女が出来なかったので、禊としてヨーロッパバックパッカー一人旅も敢行しました。
初海外かつ一人かつ3週間の長期滞在で、アドベンチャー精神が身につきました。

そしてあっという間に就職活動。
高校生の時から興味のあった広告業界に絞った就活で、なかなか崖っぷちな就活をした苦い思い出です。
結果的には、三番目に行きたかった広告会社に内定を頂くことが出来ました。
そこ落ちたらもうほぼ就活浪人確定というくらい、ギリギリの戦いでした。
本当に我ながらとってもラッキーマン。
周りが就活を終えていく中、いつまでも自分だけやっている不安、焦り、惨めさ、半端じゃありません。
我ながら大学生の自分はかなり無能だったと思います。
無能が「絶対に電通行きてえ!」とか言ってごめんなさいって感じです。
沢山のOB訪問も虚しく、一次面接で普通に撃沈しました。
部活と並ぶ、もう二度と戻りたくない過去の1つです。

という感じで、大学生活は、最初に冬の時代が来て、徐々に春が来て、気づけば真夏のジャンボリーでした。
結果的に人に恵まれ、一生物の友だちができ、希望の就職先にも就くことが出来、満足な大学生活でした。
酸いも甘いも噛み分けられて、大学に行って良かったなと思います。

結論:人生はいつでも取り戻せる、ほんのちょっとの勇気と運があれば

by30歳手前の私

社会人(20代前半)|とんだブラ●ク企業に就職してしまった

さあ始まりました社会人生活。憧れの広告業界。
激務とは聞いておりましたが、うーんやっぱり激務。
「1年目からこんな時間まで働いちゃう?にしては給料低くねえか?みなし残業っていうブラックシステムなに?」
という感じでした。

それに加えて、1年目の最初に付いた上司は、シゴデキ系若手だけど、故にパワハラ。
出来ない人の気持ちがわかりません。
毎日言葉責めに遭っていました。
色々任せてくれるけど、求めるレベルが当時の自分には高すぎて、日々コテンパンにされていました。
悔しくてトイレで泣いたこともあるし、理不尽が頭にきて「帰れ」と言われて、本当に帰ったこともありました。

そんな感じで、とにかく会社、仕事が嫌で嫌で仕方ありませんでした。
入社して半年くらいでもう辞めるか〜と何度思ったことかわかりません。
オトンとオカンがわざわざ東京に来て慰めてくれたこともありました。
優しい上司の元、ぬくぬくと働いている同期を横目に、「なんで俺だけ〜」と睡蓮花の二番が脳内再生されていました。

ただ今思い返せば、最初にあの上司の下について良かったなと心から思います。
腑抜けまくった自分を叩き直してくれて、仕事に対する向き合い方や進め方を教えてもらいました。
丁寧な説明は一切せず、背中で語る職人系上司でしたが、感謝しています。
おかげでそれ以来、どんな仕事もある程度上手いこと進められるようになりました。
またストレス耐性もぐーんと高くなりました。

ちなみに社会人1年目の初夏には彼女が出来ました。
高校3年生以来の彼女です。とにかく顔がタイプで、付き合えた喜びで空も飛べるはずでした。
そして3ヶ月で振られました。ポケモンGOが日本でローンチした翌日に振られました。
やはり恋愛経験値が高校生止まりの自分には、難しかったようです。

その後は同期とナンパをしたり合コンをしたりアプリをしたり、色々な遊びをしました。
新卒で入った会社の同期は今でも仲良しで、ここでも最高の友達に恵まれました。
伝説のナンパ師こと、同期のS君には、街中は出会いの宝庫ということを教えてもらいました。

そんなこんなで3年目となり、「第一次転職したほうが良くね?期」が訪れました。
給料は上がってきたものの、変わらず労働時間は長く、やっている仕事も楽しいとは思えません。
またこの仕事を続けていて、他の仕事に活かせるのか?スキル付いてなくね?という不安しかありませんでした。

そんな中でとりあえず行動だと思い、ベンチャー企業の社長に会って話してコテンパンにされたり、またいくつかのベンチャー企業にスカウトされたりしました。

しかし結果的に転職はせず続けました。
辞めなかった理由は、当時付き合いのあった自営業の先輩に、
「全部を仕事で満たそうとするから悪い。自己実現は仕事以外ですればいい」
「あと今の会社かなり条件良いぞ。多少ブラックでも給与面とか他と比べたらかなり良い」
というお言葉をもらい、踏み止まりました。

結果、辞めずに続けて正解でした。
その後すぐに住宅ローンで家を買ったり、翌年からボーナスの金額跳ね上がったり、本当に辞めなくて良かったと思いました。
あの時先輩がおらず、ベンチャーに転職していたら、今の僕はいません。
ありがとう先輩。

結論:先輩の言葉は偉大、あと時には我慢も大切

by30歳手前の私

社会人(20代中盤)|愛と平和な暮らしとぺいすけとの出会い

さて気づけば社会人も四年目です。
四年目にもなると、自分でできることも増え、わりと自己都合で働けるようになってきました。
ボーナスも良かったので、もう少し続けてみるかあという気持ちになりました。

また3年目の終わりごろには彼女が出来ました。
この彼女とは、この後4年弱一緒に過ごしました。
彼女には、本当にいろいろなことを教えてもらいました。
彼女のお陰で、人としてまともになれた部分もかなりあると思います。
これまで高校生の恋愛しかしたことの無かった自分でしたが、彼女との暮らしを通して、愛とは何かを何となく理解できた気がします。
人生で運命の人は二人いて、一人目は愛を教えてくれて去っていくそうですが、まさしくそうだと思います。
現時点で別れて1年半くらいで、まだまだ胸が痛む日はあるけれど、いつか100%の気持ちで良い日々だったなあと思い出したいものです。

という恋愛感傷謳歌はここまでにして。
4,5年目の仕事は安定という感じでした。
ただ安定の中にも、本当にこのままでいいのか?という違和感を持ち続ける毎日でした。
「出来ることは増え、頼られるけど、ずっとこの仕事をしたいのか?」
「自分より出来る人はたくさんいるし、このままじゃだめじゃないか?」
「もっといろいろな経験をしたほうがいいのでは?」
「惰性で働いていていいのか?」
という風に、湧き上がる上昇思考みたいなものに苛まれ続けていました。

そんな中withコロナに突入しました。
コロナ期間中、アートに出会い、自分の力で生きるアーティストに魅了されて、上述した上昇思考はますます強まりました。

また2020年4月には、相棒である柴犬のぺいすけにも出会いました。
当時付き合っていた彼女のオトンのお墓参りに行った際、たまたま入ったペットショップの店主と仲良くなり、1ヶ月後に見つかったのがぺいすけです。
いつかは犬を飼いたいなあと思っておりましたが、まさか20代半ばで飼うとは思っていませんでした。
犬を飼うことは賛否両論ありましたが、おっさんになって飼うよりも、今飼ったほうが楽しいだろう、そもそもおっさんになるまで生きてるか分からないし、ということで決めました。
あとは縁の力を信じているのもあります。

結果今とても幸せで、またぺいすけに生かされている部分も大いにあるので、あのときの判断は正しかったなと思います。
ここまで愛情を注げて、愛しさを感じる存在って出来るんだなと思います。
僕が死ぬ前日まで生きていて欲しいなと思います。

結論:人は安定の中だけで生きていくのは難しかったりもする、また犬は人生の幸福度を上げる

by30歳手前の私

社会人(20代後半)|社会人第2ステージ突入、人生とは悩み、戦い続ける日々の連続である

そして社会人6年目の春、つい新卒で入った会社を辞めることを決意しました。
非常に悩みながらも、いつか辞めるなら早いほうがいい、もっと広い世界で自分を試してみたい、という気持ちで決心しました。
明確に何をやりたいなんてのは決まっていなくて、とにかく辞めないといつまでもこの状況に甘えてしまうという気持ちから、辞めることにしました。

今思うと、失礼な辞め方をしてしまったなあと反省する点もあります。
ポンコツ時代から沢山お世話になったわけですし、辞めるときはしっかり礼を尽くすべきだったなあと思います。
物事は始めるのも大切だけど、続けること、辞めることも大切なことだなと思います。

そして次の仕事は、アート関係のベンチャー企業で働くことに決めました。
先輩の紹介で出会った会社で、これも縁かと思い、前提アートが好きなことに加えて、新規事業の立ち上げなど新しい経験値を積めることから、半ば勢いで決めました。
これまでは2,000人超の会社でしたが、正社員4人の会社への転職でした。
年収は半分くらいになりましたが、すぐに上げられるだろうと思っていました。

ベンチャーの働き方は、今までの働き方とはかなり異なり、大変でした。
大手の仕事も大変でしたが、ベンチャーの仕事の大変さはまた別でした。
仕事があり過ぎてしんどい大変さから、仕事をまず作る大変さ、また作っても人に依頼するお金が無いため、基本自分でやらなければいけない大変さ。
今となっては、そこでの経験や学び、今のお金を稼ぐベースになっている部分も大いにありますが、当時はとにかく大変でした。

仕事が大変というか、給料が減り、貯金が減っていくことがかなりしんどかった。
そして事業として一発当てないと、年収が上がらないという焦り。
大手の、「働いていればある程度勝手に年収が上がっていく」とは訳が違いました。
"ベンチャーってなんかいいな"と思っていましたが、それは大手のないものねだりだったんだなと気付きました。

なんで最初の会社を辞めたんだっけと悩むことが増えました。自分の求めていたものが分からなくなりました。
前の会社の同期のボーナスの金額を聞いて、やさぐれながら朝まで飲んで、悲しい気持ちで帰宅した日もあります。

そして自分の中で、「挑戦も大事だけど、それよりもベースとして安定があることが大事」という価値観に気付きました。
ひもじい思いをしてまで、挑戦をするというのは、自分の価値観には合っていないと、経験して理解をしました。
新規営業で1日100件企業のメールフォームから営業メールを送ったり、謎の交流会に行ったり。
あれ、これが自分のやりたかったことなんだっけ?という疑問を日々抱えていました。

そして1年半ほど働き、このまま続けても、得られる経験値や金銭面でも限界が来るなと思い、辞めることを決意しました。
自分はどこまで行っても、働く上で「コスパ思考」が脳の多くを占めていて、掛けた労力や時間に対するリターンを考えてしまいます。
生活費を稼ぐ"ライスワーク"を考える上で、やはりコスパ思考は大事です。
コスパ思考は、もちろん自分に求められる役務は果たす上で、それをいかに短い時間で終えられるか、それが重要です。
出来ること全てをやって仕事をスケールさせていく、ベンチャーの仕事はコスパとは真逆にあります。
だからベンチャーの仕事をライスワークにするのは、なかなか難しいものがあるなと気付きました。
大手の仕組み化された稼ぎ方というのは、すごく価値があるものだなと、この経験を通して思い知りました。

とまあ、お金の稼ぎ方について話すとキリが無いのでこの辺にしておきます。
自己実現は、安定した収入の上に成り立つものなんだなと身を持って知りました。
社会人3年目で先輩に教えてもらった、"ライスワークと自己実現は別で考えたほうがいい"という言葉が身に沁みました。

またこの頃、長年付き合った彼女との別れもありました。
愛は失ってからその価値に気付くもんだなあと痛感しました。
当たり前は当たり前じゃなかったんだなと思いました。

職も恋も失い、なかなか絶望の淵にいたのが2022年12月。28歳の冬。
生きていることが結構しんどかった。
冬というのも相まって、気付くと周りが薄暗くて、一日何も生み出さずにいることがしんどくて仕方なかった。
自分のやってきたこと全てが意味が無かったような気がして、地獄のような気持ちでした。

そしてこの時は家族とぺいすけに本当に救われました。
自分の中で家族の大切さが今まで以上に高まって、自分もいつでも自分の家族のそばにいられる存在でありたいなと思いました。
皆から見たすごい人になることよりも、身近な人のヒーローであれればいいなと思いました。

そしてこれまた運良く、個人で仕事を受けられることが決まりました。
年明けからの仕事に困っていた自分にとって、起死回生のチャンスでした。

その仕事に取り組みながら、以前から興味のあった不動産に本格的に取り組むため、法人を設立しました。
ただ不動産はあくまで手段で、自分の軸である、"身近な人のヒーロー"になるために、時間とお金を持っているお父さんになりたい、そのための手段として不動産が最も現実的だから、という理由です。
そんなこんなで独立後1年が経過し、周りに恵まれたおかげで今も続けられています。

趣味のキックボクシングも練習量を増やして試合に出たり、新しい趣味を始めたり、家族や友達と遊んだり、プライベートも充実した日々を送れています。
もちろん上手くいかないことも沢山ありますが、目標を持って色々なことに取り組めている今は幸せだなと思います。

思い返すと20代後半はかなり激動で大変でしたが、その分いろいろな経験を積めたなあと思います。
新卒で入った会社を辞めてみて良かったなと、2年経ってからようやく心から思うことが出来ました。
環境を変えてみないと見えてこないものがたくさんあります。

結論:安定と挑戦はバランスが肝心、そして若いうちに失敗してみることはもっと大事

by30歳手前の私

そしてこれから

そして明日からは30代の人生が始まるわけです。
30代になるとは言え、へばりついて離れない、地続きの今を生きていくことは変わりません(by白日)

30代の目標は大きくこんな感じです。

・ちゃんと稼いで、大切な人を守れる人間であること(独立でもサラリーマンでも手段は問わない)
・キックボクシングを続けて心身ともに鍛え続けること
・新しく始めた趣味を楽しみながら、結果を出すこと
・不動産事業を拡大して稼ぎを作ること
・ユーモアを忘れず、自分らしく生きる、人の価値観に流されないこと
・パートナーを見つけて、自分の家族を作ること
・惰性で生きず、周りにポジティブな影響を与えられる人間であり続けること

by30歳手前の私

一歩ずつ、出来ることから、周りへの感謝を忘れず、自分らしく進んでいこうと思います!
ということで、ここまで読んでくれた方はありがとうございます!
ここまで読んでくれた方への合言葉「奇人パレード」と言ってくれたら、100円あげます。

30歳の私もどうぞよろしくお願いします!

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