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「ブルシット・ジョブ」についての持論

「ブルシット・ジョブ」とは「くそどうでもいい仕事」のことを指しているそうだ
何年か前から「ブルシット・ジョブ」の名はネット上で有名になり、『そういえば、俺もブルシット・ジョブと思われる仕事をすいぶんとやらされたな』と実感した

そんな仕事誰がやらせた? 何のためにブルシット・ジョブが生まれた?
そう思い詰めて考えた結果、
誰かが真剣に取り組んでいる実にスバラシイ!仕事を『あんなものはブルシット・ジョブだ』と思っている誰かは少なくとも一人はいる
きっと、そうなんじゃないか

人は誰でも自分で「この仕事をやろう」と決めて取り組んだことを、やっている最中に『これはブルシット・ジョブかもしれんな』とは絶対に思わない
これを絶対やり遂げようと一心不乱に思っている

ただその仕事が達成したらどうなるか?
もし賞賛の拍手を浴びたり、尊敬する人から労いの言葉をかけられたり、報酬を得られたら、きっと間違いなく『やった仕事は素晴らしかった』と思う
絶対にそれがブルシットだなんて考えもしない

もし仕事が終わったあと、だーれも賞賛しないし、「ご苦労様でした」みたいな声かけも無かったし、無報酬のタダ働きだったら
きっと『あれはブルシット・ジョブだったかもしれない』と思う人が多かれ少なかれ出て来るに違いない
特に上司や誰か目上の立場の人に、やらされた仕事だった場合にこのような「無反応の無報酬」状態になったら「あんなクソ仕事やらせやがって」と怒りがこみ上げてくることは想像に難くない

誰からも指示されることなく自発的に『これはやらなければ』と考えて行った仕事はブルシット・ジョブになるわけなんかない!
間違いなくその仕事をやった張本人は自分が自発的にやった仕事をブルシット・ジョブとは絶対に思わないが、それを陰で見ていた誰か見知らぬ他人は、果たして同感するだろうか?

例えばと、ここで例を書きたくなったけど、それを書くと誰かの仕事をバカにしていると捉えられかねないので、あえて例は書かないが、
価値観の違う人から、他の価値観で行っている仕事を眺めたら、それはブルシット・ジョブに見えてしまうことは珍しくもない
「あの人、なんて無駄な仕事しているんだ」と見えてしまうのだ

しかも、少し上に書いた「賞賛の拍手を浴びたり、尊敬する人から労いの言葉をかけられたり、報酬を得られた」仕事にしても、価値観が違うとそれはブルシット・ジョブに見えるし、このように思い詰めていくとブルシット・ジョブは客観的には決めることは不可能だとなる

一方で、自分自身が「これは間違いなくブルシットだ!」と主観的に決めつけることは可能だし、とても簡単
「俺はあの仕事は無駄の権化で、まさにブルシット・ジョブだ」を自分で決められる
もしそう決めたのなら、その仕事を排除するように行動したらきっといつか効果があがる
自分が考えた「あれがブルシットだ」という仕事をやめさせるための活動家になり、同じ考えの同志の輪を広げていけばいいんだ

ただひとつ考えておかなければならないことは、
もしかしたら、自分もそのブルシット・ジョブのおかげで会社から給料をもらっているのかもしれない、ということだ
ブルシット・ジョブが努力の末に廃止された暁に、気が付いてみたら「俺の仕事は無くなって、リストラ対象者になっていた」ということが起きないとも限らない

俺もかつて会社をリストラ退職した身なのだが、その直前までやっていた仕事の種類は、御多分に漏れず社内業務の効率化だった
そして面接で「君はいままでいろいろ成果をあげてくれた、が、これから君にやってもらう仕事は無くなったんだ」と上司に言われ、それが俺のリストラ退職の始業式だったんだ
これは事実だョ


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