キングカズが現役のうちに読むべき本『たったひとりのワールドカップ』
みなさんが、夢を諦めたのはいつですか?
ここでの夢とは、
といった堅実なものではなく、
といった、壮大な夢のことです。
私も『総理大臣になる』なんて夢を持っていましたが、いつしか現実を知って夢を諦めてしまいました。
しかし、絶対に諦めなかった人もいます。
三浦知良選手もその一人です。
11歳のころに初めてワールドカップを見たカズ。
ここで、
という夢を抱きます。
しかし、当時の日本にはJリーグすら存在していません。
(="サッカーのプロ”は、いない状態)
それでも、カズは夢を叶えるために15歳で単身ブラジルに渡ります。
今と違って、海外でサッカーをプレーすることが極めて珍しい時代に、ですよ。
15歳(カズは高校を1年生で中退)なんて、まだまだ子供です。
夢にかける相当な熱量と覚悟が伝わってきませんか。
ブラジルで武者修行し、帰国後のJリーグでは初代MVPを獲得するカズ。「ワールドカップ出場」の夢に着実に近づいていきます。
日本代表はフランスW杯の予選を勝ち、ついにカズがの夢が実現――
というところだったのですが、W杯初戦の10日ほど前、カズは日本代表から落選します。(詳しくは後述)
私は、長年疑問に思っていました。
『たったひとりのワールドカップ―三浦知良、1700日の闘い』(一志治夫 )は、そんな疑問に答えてくれるノンフィクションです。
1.ドーハの悲劇
1993年、Jリーグ開幕。
カズも出場した開幕戦のチケットの倍率は、約14倍でした。
当時は、私も「ヴェルディ川崎を応援するぞ!」「いや、名古屋グランパスだろ!」などと友人と熱く話していました。
そんな盛り上がりを見せるなか、1994年のワールドカップに向けた予選が始まります。
当時26歳で絶頂期を迎えていたカズも日の丸を背負って戦います。
が、そこで待っていたのがドーハの悲劇。
カズを含む日本代表は、残り数分のところで失点し、W杯出場を逃します。
(ちなみに、この試合に現:日本代表監督の森保一氏も先発出場しました)
カズを含む選手たちは、立ち上がれなくなるほどショックを受けます。
(テレビ解説をしていた、のちの日本代表監督・岡田武史氏は泣きます)
このとき、カズは26歳。
絶頂期でのW杯出場は、叶いませんでした。
しかし、前に進むしかありません。
ここから本書のタイトルどおり『1700日の戦い』が始まります。
それは、熾烈で残酷な戦いの始まりなのでした・・・・・・。
2.カズの活躍。日本人初の・・・・・・
1993年、カズは世界選抜に選ばれ、ACミラン(当時の超強豪チーム)と対戦します。
そしてアシストも決めました。
1994年1月、カズはJリーグ初代MVPを獲得します。
表彰式での赤いスーツは、小学生だった私も「かっこよすぎるやろ・・・・・・」と思いましたね。
同じ1994年、カズは当時世界最高峰のリーグだったセリエAのチーム「ジェノア」に1年間のレンタル移籍をします。
セリエAのプレイヤー誕生は、日本初だけでなくアジア初でした。
【※】
期限が1年だけだったのは、所属チームのヴェルディ側の事情。
ヴェルディとしては、カズが離れるのは痛かった。
この頃のカズは、名実ともに日本を代表する選手だったことがわかりますね。
そんなレベルの高いリーグに向けての抱負を語るときも、「W杯」という言葉が出てきます。
ゴールを決め、華々しいデビューを・・・・・・
しかし、
カズはそのデビュー戦で鼻骨の複雑骨折と眼窩系神経を損傷。
救急車で運ばれました。
デビュー戦でのケガによる一ヶ月離脱や采配の影響もあって、カズが試合に出場できたのは全34試合中、21試合でした(うち11試合は途中出場のみ)。
本人は満足できるはずがなかったのでしょうが、気持ちは前へ前へと向かっています。
すべてはW杯のために――
3.ワールドカップ予選の始まりとカズの評価
フランスW杯の予選が始まる1997年、カズは30歳になっていました。
30歳のサッカー選手は「若い」とは言えないかもしれません。
が、そこは一日に何度も体重計に乗ったり、血液検査の結果の隅々まで目を通すカズです。
本人は年齢を気にしていません。
では、周囲の評価はどうだったのでしょうか?
予選の対戦国オマーンのアルジョハリ監督は、次のように語っています。
日本代表として出場した韓国戦では、次の様子でした。
このように特定の人物に密着する戦術は、「自分たちにとって脅威となる選手」に実行されます。
カズは、韓国から徹底的に警戒されていたのでした。
しかし、ここでも”シナリオの崩壊”が。
この韓国戦で、カズは尾骶骨を骨折してしまいます。
日本代表も大事な予選を1対2で敗北しました。
骨折の影響で、このあとのW杯予選でカズは点が取れません。
マスコミが唱えた『カズ不要論』は一般のサポーターに着実に伝播していきます。
ただ、私自身としては当時は『カズ不要論』なんて聞いたこともなかったです。
1997年当時、私はまだ小学生。
カズ=日本サッカーの象徴=絶対的なヒーローでした。
私も友人も大好きだった『ドラゴンボール』(鳥山明)の孫悟空が、いつまでも”最強で一番”だったのと同じで、カズは”最強で一番”だったのです。
しかし、そんな子供にもカズ以外に惹かれる選手が出てきました。
中田英寿――
のちに日本代表の柱となる選手の台頭です。
中田は、
と、日本代表チームの戦術とカズが嚙み合っていないような発言をしています。
それでも、カズは日本代表に選ばれ続けます。
1998年5月7日、当時の監督・岡田武史氏は、カズについて次のようなコメントを残しました。
ところで、2022年カタールW杯の初戦(ドイツ戦)のメンバーと当時の所属チームを下記にまとめました。
黄色になっている選手は、海外チームに所属しています。
権田選手、酒井選手、長友選手も数年前まで海外のチームでプレーしていました。
つまり全員が海外でのプレー経験があるということです。
今では当たり前のように存在している「海外経験者」ですが、当時はカズしかいなかったわけです。
この時点で25人の一人に、カズは選ばれました。
この25人から22人が最終メンバーに選ばれます。
カズは、W杯本選直前の親善試合に出場できなかったものの、まったく悲観していません。
このとき、小学生の僕は――、
初めてのW杯に向けて浮かれていました。
お金が無くて買えないことは承知で、日本代表のユニフォームをお店に見に行き、興奮していました。
「相手は強いらしいけど、カズは何点決めてくれるのかな」なんて思ってもいました。
W杯というものに期待すると同時に、カズの活躍に胸をときめかせていたのです。
最終メンバー発表の前日、カズはキャプテンマークをつけて地元のクラブチームとの練習試合に出場しました。
そして、執念のハットトリック(3点取ること)を決めます。
岡田監督への最後のアピールだったのでしょう。
4.ニヨンの屈辱
しかし、カズは最後の最後で日本代表メンバーから落選。
この”事件”は、合宿地がスイスのニヨンであったことから、”ニヨンの屈辱”と呼ばれました。
記者会見にあらわれたカズの言動は、
悔しさを押し殺し、
恨み言を抑え、
監督の批判を一切せず、
仲間を応援する――
という紳士的なものでした。
という言葉は、何度聞いても胸が熱くなります。
ただ、当時の私は、
と叫んでいました。
私より悔しかったのは、当然カズ本人です。
『たったひとりのワールドカップ』は1998年に出版された本で、当時のカズの心境も書いてあります。
そして、この言葉の続きは、
です。
はたして、カズは何を思ったのでしょうか・・・・・・?
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