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キングカズが現役のうちに読むべき本『たったひとりのワールドカップ』

みなさんが、夢を諦めた・・・・・のはいつですか?


ここでの夢とは、

◆警察官
◆幼稚園の先生

といった堅実なものではなく、

◆プロ野球選手になる
◆宇宙飛行士になる
◆社長になって豪邸に住む

といった、壮大な夢のことです。


私も『総理大臣になる』なんて夢を持っていましたが、いつしか現実を知って夢を諦めてしまいました。




しかし、絶対に諦めなかった人・・・・・・・もいます。





三浦知良かずよし選手もその一人です。






11歳のころに初めてワールドカップを見たカズ。
ここで、

という夢を抱きます。


しかし、当時の日本にはJリーグすら存在していません。
(="サッカーのプロ”は、いない状態)


それでも、カズは夢を叶えるために15歳・・・単身ブラジルに渡ります。

僕がワールドカップへ、って言ってた頃、とにかくみんな口には出して言わなかったけど、日本が行けるわけないじゃないかってそういうふうに思っていた。でも、ブラジルに行ったのも、結局は、ワールドカップというものの存在があったし、僕は自分ではずっと思い続けていた。

一志治夫 『たったひとりのワールドカップ―三浦知良、1700日の闘い』
(カズの言葉)
p213



今と違って、海外でサッカーをプレーすることが極めて珍しい時代に、ですよ。

15歳(カズは高校を1年生で中退)なんて、まだまだ子供です。
夢にかける相当な熱量・・覚悟・・が伝わってきませんか。


ブラジルで武者修行し、帰国後のJリーグでは初代MVPを獲得するカズ。「ワールドカップ出場」の夢に着実に近づいていきます。

日本代表はフランスW杯ワールドカップの予選を勝ち、ついにカズがの夢が実現――



というところだったのですが、W杯初戦の10日ほど前、カズは日本代表から落選します。(詳しくは後述)




私は、長年疑問に思っていました。



『たったひとりのワールドカップ―三浦知良、1700日の闘い』(一志治夫いっしはるお )は、そんな疑問に答えてくれるノンフィクションです。



1.ドーハの悲劇


1993年、Jリーグ開幕。
カズも出場した開幕戦のチケットの倍率は、約14倍でした。

当時は、私も「ヴェルディ川崎を応援するぞ!」「いや、名古屋グランパスだろ!」などと友人と熱く話していました。

そんな盛り上がりを見せるなか、1994年のワールドカップに向けた予選が始まります。

当時26歳で絶頂期を迎えていたカズも日の丸を背負って戦います。
が、そこで待っていたのがドーハの悲劇。



カズを含む日本代表は、残り数分のところで失点し、W杯出場を逃します。
(ちなみに、この試合に現:日本代表監督の森保もりやすはじめ氏も先発出場しました)

カズを含む選手たちは、立ち上がれなくなるほどショックを受けます。
(テレビ解説をしていた、のちの日本代表監督・岡田武史たけし氏は泣きます)


このとき、カズは26歳。
絶頂期でのW杯出場は、叶いませんでした。


しかし、前に進むしかありません。

カズは、カタールから帰国した翌日、ヴェルディ川崎のグラウンドで早くもトレーニングを始めていた。

p17



ここから本書のタイトルどおり『1700日の戦い』が始まります。

それは、熾烈で残酷な戦いの始まりなのでした・・・・・・。

2.カズの活躍。日本人初の・・・・・・


1993年、カズは世界選抜に選ばれ、ACミラン(当時の超強豪チーム)と対戦します。
そしてアシストも決めました。

1994年1月、カズはJリーグ初代MVPを獲得します。
表彰式での赤いスーツは、小学生だった私も「かっこよすぎるやろ・・・・・・」と思いましたね。

同じ1994年、カズは当時世界最高峰・・・・・のリーグだったセリエAのチーム「ジェノア」に1年間のレンタル移籍をします。

セリエAのプレイヤー誕生は、日本初だけでなくアジア初・・・・でした。

【※】
期限が1年だけだったのは、所属チームのヴェルディ側の事情。
ヴェルディとしては、カズが離れるのは痛かった。


この頃のカズは、名実ともに日本を代表する選手だったことがわかりますね。


そんなレベルの高いリーグに向けての抱負を語るときも、「W杯」という言葉が出てきます。


Jリーグでやっているときとは比べものにならないぐらいの不安、危機感がある。(中略)だけど、それを乗り越えて、自分で何かをやり遂げれば、一年後に胸を張って帰ってこれる。 フランスのワールドカップに行くためにも、必ず何かをつかんで帰ってきたい。

(カズの言葉)
p27


ゴールを決め、華々しいデビューを・・・・・・
しかし、


カズはそのデビュー戦で鼻骨の複雑骨折と眼窩がんか系神経を損傷。
救急車で運ばれました。



デビュー戦でのケガによる一ヶ月離脱や采配の影響もあって、カズが試合に出場できたのは全34試合中、21試合でした(うち11試合は途中出場のみ)。


本人は満足できるはずがなかったのでしょうが、気持ちは前へ前へと向かっています。
すべてはW杯のために――

(イタリアでの結果には)全然腐っていない。目標があったから大丈夫だった。ワールドカップがあるから、それまでは大丈夫、これはすべてワールドカップのためなんだ、と思っていた。

(カズの言葉)
p52


3.ワールドカップ予選の始まりとカズの評価


フランスW杯の予選が始まる1997年、カズは30歳になっていました。
30歳のサッカー選手は「若い」とは言えないかもしれません。

が、そこは一日に何度も体重計に乗ったり、血液検査の結果の隅々まで目を通すカズです。
本人は年齢を気にしていません。



では、周囲の評価はどうだったのでしょうか?

予選の対戦国オマーンのアルジョハリ監督は、次のように語っています。

フィールド内でのミウラは動いているときもそうでないときもとてもいい。本当に一瞬のうちに体勢を変えて行動する。(中略)だから、我々にとっては、彼をマークすることが重要だった。

p99


日本代表として出場した韓国戦では、次の様子でした。

韓国のディフェンダー崔英一が九十分間ひたすらカズに密着していたのである。崔英一は、たとえカズがピッチの外に出て治療を受けていても、その傍らに立っているというふうだった。 見えないところで、唾をかけたり、腹を蹴ったりとマーカーはあらゆる手立てでカズをマークし続けていた。

p138-p139


このように特定の人物に密着する戦術は、「自分たちにとって脅威となる選手」に実行されます。
カズは、韓国から徹底的に警戒されていたのでした。


しかし、ここでも”シナリオの崩壊”が。
この韓国戦で、カズは尾骶骨びていこつを骨折してしまいます。
日本代表も大事な予選を1対2で敗北しました。


骨折の影響で、このあとのW杯予選でカズは点が取れません。

マスコミが唱えた『カズ不要論』は一般のサポーターに着実に伝播していきます。

ただ、私自身としては・・・・・・・当時は『カズ不要論』なんて聞いたこともなかったです。


1997年当時、私はまだ小学生。
カズ=日本サッカーの象徴=絶対的なヒーローでした。


私も友人も大好きだった『ドラゴンボール』(鳥山明)の孫悟空が、いつまでも”最強で一番”だったのと同じで、カズは”最強で一番”だったのです。

しかし、そんな子供わたしにもカズ以外に惹かれる選手が出てきました。

中田英寿ひでとし――

のちに日本代表の柱・・・・・・となる選手の台頭です。


中田は、

「やっぱり、トップがカズさんじゃ厳しいよ。 スペースに走り込むタイプの人じゃないし、がっちりとポストプレーができるタイプでもない。あえて言うなら、ゴール前のチャンスをかぎ分けるのが得意な人でしょ。(中略)だったら、後ろから押し上げて、カズさんがゴール前に近いところでプレーできるサッカーをしなきゃいけないのに、全然、そうじゃないんだもん。岡野(雅行)とかモリシ(森島寛晃ひろあき)を使ってくれたら、もっとやりようはあるんだけど….…….」

金子達仁たつひと『決戦前夜』
p45

と、日本代表チームの戦術とカズが嚙み合っていないような発言をしています。


それでも、カズは日本代表に選ばれ続けます。
1998年5月7日、当時の監督・岡田武史たけし氏は、カズについて次のようなコメントを残しました。

「カズには、いろいろな意見が出ていることは承知しております。ただ、彼はプレーだけではなくて、この中でいろんな世界の経験、ブラジル、イタリア、いろんな経験をしているのは彼一人で、その経験というのも大事だと思ってます(後略)」

p176

ところで、2022年カタールW杯の初戦(ドイツ戦)のメンバーと当時の所属チームを下記にまとめました。

黄色になっている選手は、海外チームに所属しています。

権田選手、酒井選手、長友選手も数年前まで海外のチームでプレーしていました。

つまり全員が海外でのプレー経験がある・・・・・・・・・・・・・・ということです。

今では当たり前のように存在している「海外経験者」ですが、当時はカズしかいなかったわけです。

この時点で25人の一人に、カズは選ばれました。
この25人から22人が最終メンバーに選ばれます。


カズは、W杯本選直前の親善試合に出場できなかったものの、まったく悲観していません。

岡田さんは自分のことをよく知っているから使わないのだ、と思っていた。どんな状況になって使っても、先発だろうが、途中出場だろうが、カズにはこれだけの実績と力があるから、もうここであえて使う必要はない、と。

p178

このとき、小学生の僕は――、
初めてのW杯に向けて浮かれていました。


お金が無くて買えないことは承知で、日本代表のユニフォームをお店に見に行き、興奮していました。

「相手は強いらしいけど、カズは何点決めてくれるのかな」なんて思ってもいました。
W杯というものに期待すると同時に、カズの活躍に胸をときめかせていたのです。


最終メンバー発表の前日、カズはキャプテンマークをつけて地元のクラブチームとの練習試合に出場しました。
そして、執念のハットトリック(3点取ること)を決めます。

岡田監督への最後のアピールだったのでしょう。

4.ニヨンの屈辱


しかし、カズは最後の最後で日本代表メンバーから落選。
この”事件”は、合宿地がスイスのニヨンであったことから、”ニヨンの屈辱”と呼ばれました。


記者会見にあらわれたカズの言動は、

悔しさを押し殺し、
恨み言を抑え、
監督の批判を一切せず、
仲間を応援する――

という紳士的なものでした。

日本代表としての誇りや魂。
そういったものは置いてきた。
だから、絶対頑張ってほしい。

という言葉は、何度聞いても胸が熱くなります。


ただ、当時の私は、

と叫んでいました。


私より悔しかったのは、当然カズ本人です。
『たったひとりのワールドカップ』は1998年に出版された本で、当時のカズの心境も書いてあります。

やっぱり、面白いね、ワールドカップって。夢のある非常にレベルの高いビッグ・イヴェント。

(カズの言葉)
p222

そして、この言葉の続きは、

だから、自分が行けなかったというのが(後略)

(カズの言葉)
p222

です。
はたして、カズは何を思ったのでしょうか・・・・・・?

カズの闘いの歴史

【書籍データ】

著者:一志治夫いっしはるお
書名:たったひとりのワールドカップ―三浦知良、1700日の闘い
出版社:幻冬舎
ページ数:231
出版年月日:1998年8月25日
ISBN-10 ‏ : ‎ 4877286411
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4877286415

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