観た。2019/10/04『受取人不明』2019/10/07『ボクが死んだ日はハレ』2019/10/23『アンクル・トム』2019/10/24『ハムレット』209/11/15『A Fairy Tale -青い薔薇の精-』『シャルム!』2019/11/16『終わりのない』 2019/11/29『GODSPELL』

新宿、サンモールスタジオ『受取人不明』。
ヒトラーが政権を掌握し、ドイツがナチスに傾く30年代。
米サンフランシスコと独ミュンヘン。仕事のパートナーでもある親友の男二人が取り交わす書簡の数々。
その手紙の内容がそれぞれの演じ手によって語られる、つまりは膨大なモノローグの応酬。
終盤のサスペンス感にはエンタメ性が漂うけれど、物語が問うのは変容する社会情勢に翻弄される一市民の人生であり、その為す術なき無力の悲哀と怨嗟だ。
「独裁」の恐怖が辛辣で痛烈に届く。
これはいつの時代の話なのか。文明の成熟も文化の発展も、知性も学識も矜持も礼節も、幾度となく蹂躙されてきた。今日においても、また。

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赤坂RED/THEATER『ボクが死んだ日はハレ』。
ひとの生き死には日常であり、我々自身が直面する最大の劇的な事件でもある。
ことに死は、往々にして悲しみに心を引き裂かれるものだ。
身近な死との対峙。
胸に迫り身につまされる、この手の題材は、だいたいにおいて「良い話」なのだ。「良い話」は苦手なのだ。安直ならば噴飯ものだし、上質なものだと更に厄介だ。切ない感情が普段フタをしている部分に細く入り込み、心臓を疼かせて虚しくなる。
しかしながら。これは思っていた様子といささか違った。なかなかのぶっ飛びの告別の儀式であった。賑々しくも姦しい大霊界だったのだ。
再起をかける歌い手の女子三人(これは言わばDREAM GIRLSの物語でもある)、そのうちの一人、かつてはヒットも飛ばした豪快な彼女は、しかし失った息子への愛執愛着断ち難く……彼の存在を日々の生活の中に感じている。息子の霊魂も実際に存在し、三人娘のひとりの霊能力を介して、母親に「子離れ」させようとする。そこに、もう一人の仲間である元セクシー系アイドルとマネージャー、そして三人組の結成を目論んだプロデューサーが絡んで……という展開。
その七転八倒、大暴れで駄々をこねるかのようなドタバタが楽しく可笑しく、まさに泣いて笑っての「お葬式」の様相。大騒ぎで大迷惑な「死者離れ」。精一杯の生命力を使い切らなければ、死者や過去の時間とは訣別出来ないのだなぁ。
別れはジタバタと泣き喚いた方が、きっといい。
見事な愛別離苦の哀惜の儀式。これは通過儀礼。そして臨死体験ならぬ臨生体験だ。生を感じて、この世を生きなければならない。死は、いつも生を気づかせる為に、そこにある。

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博品館劇場『アンクル・トム』。
韓国発のミステリー・ミュージカル。
殺人鬼の話と、小説の盗作の話が入り混じって蠢いていく。それはフィクションを書くことに飽きた天才の仕組んだ罠なのか、悩ましき青年の混濁した意識が見た夢なのか。
無限ループの悪夢。のような終結にカルト映画の趣がありました。
特筆すべきは、ニイロ氏のおじさんが絶品ということ。
超素敵。剽軽にして狂気。この人じゃないと、の絶妙なバランス。
主演に上口耕平氏。混沌と混乱の物語に溺れながら、自らもまた世界を攪乱する。彼独特の生硬な生真面目さが体温を帯びると、生温かい闇になる。
声の出演に、ひのあらたさん。すぐわかりました。渋くてスマート。作中に登場するアブサンは、私も大好きなリキュールですが、妄想じみた毒々しい緑が、水が混ざると白濁して実態を隠す。そんな、深追いをすれば遠ざかり実態をくらませるような物語でした。

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北千住、天空劇場で『ハムレット』。
休憩なしで二時間ほどで見せるので割愛されている箇所も多いけれど、基本はシェイクスピアに沿ったハムレット。憂愁の貴公子としてのハムレットでした。
カット場面のほかには、レアティーズに妹オフィーリアへの近親相姦的な情愛を持たせているのが特徴かな。
特徴と言えば「和」のテイスト、歌舞伎や舞踊の所作や趣向がふんだんに取り入れているのは、やはり演出家さんのご出自ならでは。
音楽劇という事で歌のナンバーも多く、邦楽的な要素もあって、ミュージカル風歌舞伎と言っても差し支えないかも。
衣裳は正統派な洋風だったけれど、裾の引き方が、やはり和に通じるよう。
会場は二階部分にぐるりと回廊があり(つまり本来は袖のないホール)、そこもアクティングエリアとして使われる。客席の登退場も多かった印象。
美術はいたってシンプルで、二回の手すりに黒布をかけて山並みを形作っている。上・下に数段のエレベーション。
役者陣はそれぞれ色味や実力が異なり、得手不得手も少し透けていたようで……。もちろん皆さま熱演で、大芝居の大台詞に挑んでいた様子。短縮版ではあるけれど、場面場面のたっぷり感は充分に。
死したのち、VOWS的なアンコールナンバーがあり、ちょっと歌劇芝居のフィナーレにも似て面白かった。
そして、今年のガートルードは、元ジェンヌさん率たかし。嬉しいですね。

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東京宝塚劇場、花組公演『A Fairy Tale -青い薔薇の精-』『シャルム!』。
主演を務める明日海くんのサヨナラ公演。
いまや宝塚歌劇を観るのは年に一、二度で。サヨナラの東京公演なぞチケットも大変そうで伺うつもりはなかったのだけれど、なんだかんだとあって、有り難い事に拝見できた。
明日海くんは、ほんとうにもう下級生の頃しか知らなくて。まともに喋ったのなんて『JAZZYな妖精たち』の新人公演ぐらいじゃないかしらん。
彼女の主演舞台(映像では何度か拝見していたものの)をちゃんと観たのも、ついこの間の『CASANOVA』でやっと。
その時、大変骨太で昔気質の男役になったものだなぁと感心したものです。
男役が、宝塚が好きなんだなぁ、と。
なので、もう少し節くれだった漢っぽい役も観たかった気がするけれど。
彼女ならではの甘さと美しさと毅然さで魂を宿した「妖精」は端整で透明感があり素敵だった。
前物(いまでも、そう言うのだろうか?)は、自然を愛する少女と精霊の恋物語。「良き人々」で綴られるタカラヅカらしい作品。ワタクシはヒロインの母親と庭師のおじさんが不倫関係なんではないかと邪推して、自らの心のキタナサを知ったのだ。
パリの地下都市がテーマというショーは、場面ごとにカラフルで、男役の良いところ、宝塚の良いところが沢山。
スーツの男役の場面がカッコよく(曲は大好きな『ラスト・タンゴ・イン・パリ』!)、振付が誰かと思えば百花で嬉しくなった。頑張っているなぁ。
終盤の黒燕尾がスッキリしてたなぁ。明日海くんの、皆と同じ飾りなしの黒燕尾は一男役・一生徒としての慎ましさにスターの矜持が相俟って美しかった。
下級生時代から知っている生徒さんが本当に少なくなり寂しいけれど。宝塚は、ほとんどの人にとって、やがては立ち去っていく場所。退団していく皆さま、次の人生にも幸多からんことを。

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世田谷パブリックシアター、『終わりのない』。
高校生男子が主人公で、キャンプ場から始まるオイディプス。
つまりはオデュッセイア、つまりはユリシーズ。
彼はやり直す。彼の「放浪」は変化の可能性をめぐって並行宇宙を渡り歩いていく無限の旅だ。
うっすらと削いだ罪深い日常を纏って、多次元宇宙の遍歴が繰り返される。
不幸であれ不遇であれ、彼は元いた場所に「帰りたい」のだ。
並行宇宙モノって、根源的な恐怖心と絶望感を煽る。
自らの存在の不安定さに戦慄するのだ。
だから、寂しくって怖い話だった。
作中に提示されるテーマは幾つかある。
事象が重なり合って存在する量子力学の世界、文明の発展と共に発生した意思によって引き起こされる孤独。
自らを発見し、自然の一部であるところから遊離していく人類は、自然の機能美を損なっていく。
かくて、運命はイビツな螺旋階段を永遠にめぐる。
並行宇宙モノの私的原初の記憶は藤子不二雄先生の作品だと思う。そして眉村卓先生。
でも観劇中は、手塚治虫先生の『アポロの歌』を思い出してならなかった。全然、違うのだけどね。でも、女の子が不幸な目に遭うしな……。
並行宇宙モノでは無いけれど『火の鳥』の未来編も。壮大な「やり直し」の話だからかな。
そして諸星大二郎先生『暗黒神話』のラストシーン(壮絶な虚無感!)と映画『2001年宇宙の旅』。
勿論『バタフライエフェクト』や『星ノ数ホド』とかも、そうなのですけどね。
「やり直したい」には人間の憧れと恐怖が詰まっている。

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六行会ホールで『GODSPELL』、ミュージカル座さんの公演。
メインどころのジーザス・ユダ他、すべてがダブルキャストの2チーム制。拝見した回は、馴染みの咲山類氏がジーザス。
演出は藤倉梓さんで。「和」な美術や衣装、「ええじゃないか」の連呼。「我ら」の物語に変換していく様子が面白い。
ジーザスとは何者であったのか。人類が「ひとの子」に向けた2000年に渡る愛と疑いの相克。
確か初演は1971年で、かの『ジーザス・クライスト・スーパースター』と同時期(1969年にタイトル曲がシングル発表、翌年にLPレコード発売、舞台は1971年!)。
『HAIR』が1967年、『PIPPIN』が1972年なので、そういう時代(戦争と平和と信仰を、サーカスのような混沌に見失い、道化師の素顔に見出そうとした時代!)と言えばそうなのだけれど。そういう時代を越えて、今でも新鮮な部分は多い。
『GODSPELL』で描かれるジーザスは聡明で軽快な若者で、屈託がなく優しい。そして、何処か人間離れしている。だって、彼は天なる父と交信しているから。
けれども、『JCS』と比べて、彼の言葉は極めて柔和で親切だ。この作品はフラワー・チルドレン的に神の言葉を改めて捉え、神の物語を受け入れる装置のようでもある。再び愛を取り戻し、愛に帰る旅でもある。根底には、揺るぎない信仰がある。
これは確認の物語なのだ。だから、ゲッセマネは不意打ちではなく、繰り返されてきた儀礼であり、死と再生を演じて永遠を想う祝祭劇なのだ。そして神の言葉を正しく伝えるのは、純良な人の心なのだ。純なる人としてのフラワー・チルドレンなのだ。なのだなのだ。
僕はキリスト者ではないので。
描かれている原始キリスト教団の素朴なコミューン的様相が純粋過ぎて、ちょっと怖く思えたりもする。若手もベテランも入り混じっての舞台だけれど、皆が直向きに舞台へと向かう姿勢がまた、このジーザスへの盲目的な傾倒を際立たせているかのようで。もっとも、これはキリストだからという事ではないけれど。
何といっても楽曲が魅力的で、流石に『Day by Day』は名曲。
皆さん、歌声が伸びやかで素晴らしかった。

ちなみに洗礼者ヨハネと「ひとの子」の関係も面白いよね。
洗礼者ヨハネは、「ひとの子」をこの世に送り出す役目を持っていて、同じ役者がユダも演じる。こちらは、「ひとの子」をこの世から締め出す役割だ。
死して甦りし者は神となる。すべては大いなる天の計画の下で行われている。ジーザスは役割を与えられて地上に現れた。彼は愛と共に悲しみを残していった。人々は自らが罪深き存在であると知り、悔恨と贖罪の時代を生きることとなる。



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