梨園を語る言葉は持って無いけれど。

歌舞伎狂い、という程ではない。ほどほどに観に伺う程度です。
関西に住まう青少年だった僕が、歌舞伎を楽しみに通う契機となったのは、1991年7月の中座公演『怪談乳房榎』だった(先日、松竹の方とお話しする機会があって、この公演について盛り上がりました)。
関西での歌舞伎公演復興に力が注がれていた時代であり、当然、関西ゆかりの皆様が中座、南座などで活躍されていた。
その中の重鎮のお一人に、三代目を襲名されたばかりの鴈治郎さんがいらっしゃった。後に四代目として坂田藤十郎の名跡を復活されたけれど、僕には鴈治郎さんの御名前が馴染んでいる。二代目の鴈治郎さんは僕の世代には少し縁遠く、御本人が三代目鴈治郎となる前の50年もの間、身に纏っていらっしゃった扇雀のお名前も、僕には幻の武智歌舞伎の存在と併せて、ただ憧れを持って望見するばかり。
だから、僕にとっては藤十郎さんは鴈治郎さんなのだ。ただ同時に、その名前の向こうに透けて見える永遠の扇雀さんでもあるけどね。

歌舞伎の楽しみを知ったのは前述の『怪談乳房榎』だけれど、
僕の古典観劇の入り口は、まだ小学生の頃に大正生まれの伯母に連れられて行った文楽の『冥途の飛脚』で。
だから、子供の僕が何を理解していたかは殆ど謎なのだけれど、歌舞伎の入り口も『恋飛脚大和往来』だった気がする。
ちなみに忠兵衛と梅川の物語は、宝塚歌劇でも名匠・菅沼潤先生の手により『心中・恋の大和路』となり、1998年の再々々演の際には僕も演出助手として加えて頂いた。
そんな、ちょっとした思い入れのある『恋飛脚大和往来』で、三代目鴈治郎さんは忠兵衛も梅川もどちらも演じておられ、どちらもやはり素晴らしかった。
近松の他の作品での数々のお役も、それなりに観たつもりでいるけれど、やはり「梅川忠兵衛」が思い出深い。
では、その演目が一番の記憶かというと、実はそうでも無くて。
僕が、この偉大な名優が身まかられた時に思い出すのは、いや、何時だって、これからもきっと、脳裏に浮かぶのは。
1993年の9月(調べました。大学の四年生で、もう宝塚で働いていたな……)、国立文楽劇場での『夕月船頭』で。
これは15分にも満たない常磐津の踊りなのだけれど、最初、花道で駕籠に乗って芸者の姿で現れて。
花道の途中で、さっと垂れをあげると、顔を隠した団扇をふっと下ろす。
その時に見えた、花のかんばせ。婉々として馥郁たる、美しさ。
芙蓉の如き。
あの美しさを、僕は終生忘れはしまい。
そして、当時にして60歳を越えられていたのに、その現実を霧散させて夢想を現出させる確かな芸の力。
舞台の力。
この世に無いものをこの世に浮かび上がらせる舞台の力を愛そうと思った。愛せると思った。愛するしか無いと思った。その確信を得た。あれもそんな一瞬だった。

*1993年の国立文楽劇場9月公演は『加賀見山旧錦絵』が同時上演でした。
これもまた素晴らしい公演でした!
嵐徳三郎さんの岩藤!
片岡秀太郎さんの尾上!
ワタクシ的、この作品の上演史における白眉です。

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