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いつの夏だれの夏

先日、平日に休みを取って三浦半島の南端、三崎へ日帰りで遊びに行った。
4〜5年前に初めて一人でここを訪れて以来、友達と来たり娘と来たり、すぐそばの城ヶ島で行われた音楽フェスを観に行ったりと飽きずに何度も来てしまう。そして来るたびにまた来たいなーと思いながら帰る。
かつてマグロ漁で栄えまくった小さな町には風格ある古い建物がたくさん残っている。今その町の雰囲気を生かした新しいお店や、古民家をリノベーションした宿泊施設なども増えていて、行く度に変わっていく過程を感じるのも楽しい。

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三崎は大人になってから初めて訪れた場所なのに、なぜだか私にはひどく懐かしい。バス停周辺の賑やかな一角から遠ざかってわざと迷い込むような気持ちで路地を歩く。平日の人の気配のない商店街や神社へ続く道をうろうろするたびに、段々と「これは、いつのどこの誰の記憶の中の風景なんだろう」みたいな、自分の足元や時間軸が曖昧になるような不思議な感覚になる。


そしてそんな時歩きながら思い出すのは決まって子供の頃の夏のことだ。

やかんで煮出した麦茶が冷やしてあるガラスの容器、そこに印刷されたオレンジの花柄。
母が作ってくれたシアサッカー地のワンピース。
扇風機の青い羽。
父が風呂場に持ち込んでまで聴いていた、ラジオのナイター中継の音。
プール帰りの詰まった耳からあったかい水がこぼれ出てスッキリするあの感覚。
一日中海で遊んだ日に、布団に入ってからも体が波に揺られているように感じた夜のこと。
新じゃがのように皮が剥けていく日焼けの肩。
再々再放送みたいな色褪せた「妖怪人間ベム」や「ガンバの大冒険」を見ていた夏休みの朝。

浴衣に結んでもらった金魚みたいな絞りの帯。

母がそっとかけてくれるタオルケットのつぶつぶ感。

プールの塩素の匂いと煌めく水面すれすれを飛ぶトンボ。蝉の声、ラジオ体操カード、花火の煙と火薬の匂い。

夏休みは永遠のように長く思えた。

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実際、子供の頃の夏休みのような長期休暇は大人になるとなかなか取れない。土日だって100%自分のためだけに時間を使うことは出来ない。そう思うと、私が過ごしたあの無為に長く謎の万能感に守られていた夏休みは、とても貴重な時間だったんだと気付く。

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 『なぜ、人は生きるかなしみを感じるのでしょうか。それは孤独な旅人だからだと思います。人の命の根源は138億年前ともいわれるビッグバンとともに生まれ、46億年前に地球が出現すると、ただひとりで地球にやってきて、何代もの親子関係を通り抜けて、いまの私にいたるのです。なんと壮大な旅程でしょう。そしてこの後、どこに行くのでしょうか。私はやはり、ひとりで虚空に帰っていくのだと考えています。』

私が三崎で感じたり思い出したりするこの気持ちに最も近い名前は「旅情」だろう。

さっき旅情という言葉の意味を確認したくて調べていたら、たまたま上の言葉にたどり着いた。著書も沢山ある有名な医師の方の記事の中で、後半の人生においてときめきと同じくらい大事なのは旅情だ、旅情を感じることがボケ防止にもなる、とこの先生は仰っていた。ほほぉー。

私も薄々気づいている。結婚しても家族を持っても素晴らしい友達に恵まれても、孤独を意識した人には孤独がついて回る。そして私は孤独の良さと寂しさのどちらも知っている人の近くほど居心地が良い。

宇宙のどこかに折り畳まれている無数の夏の景色や記憶を、私達は普段は大抵忘れている。そういう砂のように細かくてこぼれやすい記憶の一つ一つを旅先で洗い出す時間は、確かに脳に良さそうだ。どのみち死んだら記憶も秘密も消えてしまうんだけれど。

だから旅先は遠くでなくてもいい。旅情に浸ってまたさり気なく日常に戻って行ける距離がいい。

私が好きな場所はいつも最初からどこか懐かしい。

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