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アナウンサーには、なれなかったよ/僕の就活トラウマについて


<1>「そう!それだよ!」


トントン、と右手でノック。
「失礼します!」といいながら、僕は扉を開けた。


六畳間ほどの広さの部屋に長机が二つ。着席している男性が3人。
その真ん中にいるのは北海道で活躍中のMアナウンサーだ。
僕は一礼して自分の氏名と出身大学を述べる。着席を促され、部屋の中央のパイプ椅子に座るが、ふわふわして、どうにも落ち着かない。
199X年の6月。民放A社のアナウンサー試験。その1次面接の会場だ。
奇跡的に書類選考をかいくぐった僕。だが、いわゆる「マスコミ研究会」的なものに所属していたわけでもなく、どこかの講座でアナウンスメントの訓練を受けたわけでもない。
しいて言うなら青森県のラジオ局にバイトで潜り込み、アシスタントのまねごとをしたことがあるくらい。人気のアナウンサー試験に乗り込むには、ドラクエでいうところの「ひのきのぼう」くらいの、あまりにも心もとない武器である。


「それではね、お手元の原稿を順に読み上げてもらいますけど、まあ気楽にのびのびと表現してくださいね」
テレビで見たことのある顔から、ラジオでよく聞く声が響いてきて、僕は全く現実感のないままに、ただただぼんやりと頷いていた。
その後の出来栄えは案の定、惨憺たるものだった。喉はひりつき、呂律は回らず、もにょもにょしながら、僕の試験自体は終わった。


目の前のMアナウンサーからの失望のオーラが、波のように伝わってきて心臓に響いた。
やっちまった。
思い描いた夢への千載一遇のチャンスは、するすると手のひらから零れ落ちていく。
「はい、ありがとうございました」とMアナウンサーは、履歴書に目を落としながら、事務的な口調でそう言った。
申し訳ないな、と僕は思った。
ほかの有望な面接者も多数いるのに、僕のためにMアナウンサーの時間を5分余りも使ってしまったのだ。
せめて全力で御礼をして帰ろう。
「お時間をいただき、ありがとうございましたッ!」
今出せる全力の声で僕は発声した。当然、廊下の外までも響いたろうし、恥ずかしくもあったが、正直な思いだった。
Mアナウンサーはスっと顔を上げ、大きな声でこういった。
「そう!それだよ!」
(Mさんに一言もらえただけで来た甲斐はあった)
思いながら僕は、面接会場の扉を閉めた。

3日後。
A社から思いもよらぬ2次面接へのインビテーションが届き、僕は有頂天になるのだが、それはあまりにも残念な結末への序章に過ぎなかったのだった。

<2>3分間?何を話す?


あれからもう20何年も経っているのだが、いまだに夢に見ることもある。私がこれから書こうとしているのは、実はそういう話である。

2次面接への招待を受けてからの一か月間、僕は忙しかった。
何をもって忙しいというかは人によって違うものだが、僕なりに体も心も忙しかった。卒論の準備もしていたし、サークルの幹部としての活動もあった。そして何より、A社と並行して受けていたB社の就職活動にもエネルギーを使っていた。
当時A社は「一般職」と「アナウンサー職」の試験が分かれていて、両方ともエントリーすることが可能だった。しかし、B社の場合は「一般職」か「アナウンサー職」か、どちらにかしかエントリーができなかった。
僕はA社をダブルエントリーで受験し、B社は「アナウンサー職」でエントリーしていた。
2社の3つの試験を受けるために、僕は当時住んでいた青森県の弘前市から札幌まで都度、往復を繰り返していた。もともと実家は札幌にあったので宿泊費がかからなかったのは幸いだった。
首尾は思いのほかトントンと進み、まずA社からなんと「一般職」で内定が出た。これは望外のことだった。ここで就職活動をやめてもいいんじゃないか。そうも思った。
だが、やはり欲が出た。
A社かB社のアナウンサーになるチャンスがまだ残っているじゃないか。ここはビッグドリームに向けて、やるしかない。


B社の2次面接は確か、6月の下旬だったろうか。
待合室には男5人女5人くらいがいたような気がする。
一人ひとりが順に呼ばれていく。
部屋に戻っていた受験者が言うには
『あなたは〇〇という状況にいます。その様子を実況してください』などと課題が出されたそうだ。ふーん、と思ったが、もう準備のしようもない。なるようになるさ。
やがて僕も呼ばれ、大きな部屋に足を踏み入れた。
今思えばあれはスタジオだったのだとおもうが、当時、そこまでの知識も持っていなかった。
3,4人の面接官がいて、ホワイトボードに大きな日本地図が貼ってあった。挨拶と自己紹介をすると、面接官の一人が
「そこにある地図をテーマに3分間、自由にしゃべってください。準備の時間は1分間です」と言った。
3分間?何を話す?自分の出身地の話?…ぐるぐる思いを巡らせているうちにあっという間に1分間が経ってしまったようだ。
「では始めてもらいます。5秒前、4、3、2、1、どうぞ」


「…私は北海道で生まれ育ち、大学に入学してはじめて北海道外で暮らしました。こちらの青森県弘前市です。ものごころついた時期から地図を見るたびに、ひとつあこがれのような思いを持っていたものがあります。それは『県境』です。北海道は四方を海に囲まれていますのでなかなか『県境』を意識することはありません。場所によっては『国境』はありますが、理由もなくそれを越えることは難しいですよね。
そんなわけで私は『県境』とはどんなものかと思っていたんです。子供のころはパスポートを提示するようなことはないにしても、何か他県から来る人や出ていく人をカウントするようなものがあるのだろうかと、そこそこ本気で思っていました。
入学して大学の友人と、東北六県、いろんなところに行きました。何度も『県境』を越えました。でも、そこには私があこがれていたようなものは何もありませんでした。地図にひかれている線。これは本当に便宜的に引かれているだけの、ただの目印でしかないのだということをようやく実感することができたんです。
そんなことを考え始めてから地図をみると、新たな疑問がわいてきました。この地図もそうですが、北海道と沖縄が枠外のようなところに置かれています。この線は何なのだろうかと。北海道も沖縄も、実際はこんな位置にはありません。えーと、何が言いたいのかと言いますと、地図の中にある『境』。この線は実際は地球上にはひかれていないわけですが、その意味というか、理由というか、を今一度考えてみたいと思います」
後半かなりグダグダになり着地点も不明になった。とりあえずあきらめずに最後までしゃべり終えたつもりでいたが、面接官が「終わり」と言わないので僕は
「すみません終わりです。だいぶ短かったでしょうか」いって頭を下げた。
いえ、だいたい時間もいいところだったんじゃないでしょうか、みたいなことを面接官の一人が言って、その場は終わった。
これで終了かと思っていたら、次があるという。
ホワイトボードが片付けられ、新たなお題が提示された。
「山登りの場面を想像してリポートしてください」というのである。
「山はどこでもいいのでしょうか?」と僕は聞いた。
「お好きな山でけっこうです。ではまた1分後にスタートです」
山なら、やっちゃる。
こう見えて僕は高校時代、ワンダーフォーゲル部の部長だったのだ。

<3>おもわず駆け寄りたくなります


「私はいま、旭岳の山頂に向かっています。有名なのは旭岳ロープウェーから姿見の池を経由して上るコースですが、今回は黒岳から北海岳を経由して、「裏旭」とも呼ばれるルートを歩いています。山頂まであとわずか、という場所まで来ていまして、上ってきた道を振り向けば『お鉢平』と呼ばれる火山噴火の痕跡のくぼ地を見ることができます」


即興のわりには克明に語ることができたのはなぜかというと、高校2年の時にワンダーフォーゲル部の縦走登山でたどった道を、そのまま思い出しながらしゃべっていたからである。
高校の登山部を経験した方はご存じだろうが、高体連の登山の大会では、競技の中に山岳の知識を問うペーパーテストが課せられるのだ。高校を卒業してからたかだか数年のこの時点では、北海道内の主だった山の名前や標高、特徴などはまだ記憶に残っていた。


「足元に目をやりますと、砂のようなザクザクとした地質です。『ザレ場』という言い方もしますが、登りにくいですね。三歩歩くと一歩分下がっているような、そんな状況ですが…山頂が見えてきました。もうひと頑張りです。いよいよ、見晴らしがよくなって、山頂です。標識がありますね。おもわず駆け寄りたくなります。
旭岳、標高2191メートル。北海道最高峰の山頂に、いま到着しました。非常にすがすがしい。そんな気分です」
僕はここでリポートをやめた。正直、この先にしゃべることは思いついていなかったからだ。
「ありがとうございました」と面接官のうちの誰かが言い、その直後の記憶ははっきりしていない。唯一覚えているのは、僕以外の受験者たちのうち、顔見知りだっららしい何人かが「ビール園に行こう」なんていっていたことだ。僕は誘われたのか、誘われなかったのか。どちらだったかはもうわからないが、僕は呆然としながら直行で実家に戻った。疲れ切っていたからだ。

<4>「辞退、いたします」


その数日後だったろうか。
A社から弘前市の自宅に電話が来た。当時はまだ携帯電話もメールも普及しておらず、留守録機能がついた電話が有用な就活ツールだった時代だったが、僕はその電話に直接出ることができた。
「アナウンス試験の2次面接に来てください」とのことだった。
絶句した。
こんなにスムーズに物事が運んでいいのだろうか。なにかのドッキリなのではないか。僕はアワアワしながら、ぜひ伺いますと答えた。
思えばこの辺からネジが一本飛んでしまっていたのかもしれない。
その翌日くらいに今度はB社から電話が来た。
こちらは「最終面接に来てください」というのである。
宝くじが当たったような気持ちで、電話口で震えながら、ぜひ伺いますといいかけた時、先方の担当者が気になる一言を言ったのだった。
「もし他局の内定を受けていて、そちらに就職される可能性が濃厚であれば、早めにご辞退も考えてほしい」


言葉のニュアンスは違うかもしれないが、その担当者は確かにこんな内容のことを言った。
「ほかの受験者にもチャンスが回るようにと考えております」
僕は10秒ほど絶句した。その10秒のうちに僕の顔はきっと真っ赤になり、そのあとすぐに真っ青になっていたんじゃなかろうか。
『どうしてもウチに来てほしい!』とは言ってくれないのか。
たしかにA社からは一般職で内定はもらっている。つまり、アナウンサーの夢を他局で叶えるのはマナー違反だということだろうか。いや、それならばいっそ落としてくれればいい。そうしたらスッキリとA社に全力を向けることはできる。
「・・・もしもし?」と担当者はいった。
「・・・えーと、ではですね、辞退、いたします。最終選考にお声がけいただいたのは大変光栄なのですが、他の方にチャンスをというお言葉もありましたので、失礼ながらこのお電話で、辞退させていただきます」
「・・・そうですか。わかりました」
「この度はご連絡いただき、本当にありがとうございました。失礼します」
そういって電話を切った。


気づくと全身汗まみれになっていた。
僕は何をやっているのか。千載一遇のチャンスを棒に振ったのではないのか。いや、だが、必要とされていないならもうアナウンサーの夢はA社に賭けるしかないではないか。
正解のない問いがグルグルと頭の中を回り続けた。
A社のアナウンサー2次試験はこの数日後だった。
そして、最も思い出すのがつらい出来事が起きるのも、その日だったのだ。

<5>「みんな、ありえないっていってたよ」


小さなころからペラペラとよくしゃべる子供で、仕入れたうんちくを人に語って聞かせるのが好きだった。周囲の人から見れば、まあ、迷惑千万な話である。しかし、だからといってアナウンサーが明確な目標だったわけではなかった。
中学生の時に深夜ラジオにはまり、ラジオDJっていいな、と思ったのが原点かもしれない。ありがちだが、自分がDJになった気分でノートに原稿めいたものを書いて、カセットテープに録音したこともあった。誰もが患う「厨二病」を、ご多分に漏れず経験していたわけだ。
高校時代は山登りのほかに合唱部に所属した。そのおかげかどうか、たまに声を褒められることがあった。
大学では塾講師のバイトで、話を聞かない中学生の気を引くためのネタ話をストックし続けた。
「そういえば去年のこの古文の授業で、高橋君って生徒がいたんだけどアイツ、古典の作者名を覚えるのが苦手だったんだよな。源氏物語の作者ってわかるよな、斎藤?」
「…紫式部」
「そう。だけど高橋はユニークな名前を言ったんだよ。なんだと思う?」
「えー、なに?」
「『まくらくさこ』だってさ。いやそれ『枕草子』だから!」
こんな感じ。


塾講師バイトの先輩にラジオ局でバイトをしている人がいて、その人が自分の後任にと僕を紹介してくれた。おかげでたまにラジオ番組内でしゃべる機会ももらえるようになり、自分の中で「放送」が目指すべきものに思えるようになった。
振り返れば放送局の試験をそれなりにクリアできた根底には、小さな小さな「好き」のカケラがたまっていたのかもしれない。あるいは単に数十年に一度の運気が巡っていただけだったのかもしれない。僕は痛烈なしっぺ返しを食らうことになったのだから。

その電話は平日の昼過ぎにかかってきたと記憶している。
弘前市の自宅でぼんやりしていた僕は、何の気なしに受話器を取った。
「もしもし、A社のTですが」
人事部の副部長だ。
「あ、はい、こんにちは」
「きょう、アナウンスの2次試験だったんだけど、どうしました?」
「・・・え?」
「みんな、ありえないっていってたよ」
「え?すみません、今日ですか?明日では?」
「きょうもう終わってしまいました」
「え?あ、本当ですか?申し訳ありません。てっきり・・・」
「何か理由はあるんですか?」
「…いえ、自分でも信じられませんが、本当に日付の勘違いです。大変失礼いたしました」
「そんな中で確認ですが、一般職で内定をだしてますけど、ウチにきます?」
「…ぜひ行かせてください!」
「…そうですか。ではお待ちしています」
「本当に、申し訳ありませんでした」


震える手で、できるだけ静かに受話器を置いた。
そしてその瞬間、僕の就職活動は終わった。
信じられない凡ミス。
受け止めがたい事実。
しかしその責任は、誰にも転嫁することはできない。
メンタルを揺さぶられるような出来事はあったが、ハタチも超えたオトナなら、問題なく自己管理できていなければならなかった。
僕は泣くことも喚くこともできず、ただただ呆然とし続けていた。

<6>人は誰でも間違う


「でもまだよかったじゃない。一般職の内定まで取り消しになったわけじゃないんだし、A社が決まったこと自体、スゴイことなんだからさ」
と、僕を心配して家に来てくれた彼女は玄関先でそう言った。
100%そのとおりである。
だが、僕はこういった
「しばらく放っておいてくれないか。ちょっと独りで考えたい」
彼女は5秒ほど黙った後、わかったといって帰っていった。
僕は後にこの人と結婚するのだが、それはまた別のお話。

部屋の中で僕は数日間、ひたすら悶々としていたが、結果的にそれは事実を受け入れるために必要な時間だった。
彼女が言ってくれた言葉を受け止めるための時間でもあった。
自分のうぬぼれと、想定外のだらしなさと、それでも誰かにすがらずにいられない卑しさと、向き合うための時間でもあった。

話が長くなりすぎたかもしれない。結論を申し上げよう。
私がA社に入社して、すでに四半世紀以上の時が経過している。
その間にテレビ・ラジオのモノづくりの現場、放送のプログラム構成を担う編成の作業、お金を稼いでくる営業外勤をサポートするコーディネーション業務など様々な形で「放送局のお仕事」を体験してきた。
あの時、2次試験を受けていたらどうだったろうか、とふと思うことはある。だが、そもそも試験を通過できたかどうかもわからないし、仮にアナウンサーになっていたとしても、私のことだ、どうせ自分の至らなさに懊悩する日々を送ったであろうことは間違いない。
ひとつだけ言えることは、入社前に自分の至らなさを身にしみて感じることができたおかげで、それ以前よりは少しだけ、他人に優しくできるようになったように思う。

人は誰でも間違う。
そしてそれはときに、取り返しのつかないものかもしれない。
やり直しのチャンスを与えられたものは幸運だ。
その幸運を無駄にせずに生きていくことができれば、苦渋の日々はいつか宝物に変わる。
私が言えるのは、せいぜいこんなことなのだけれど。

ところで、最後にもう一つだけ書いておこうと思う。
夢はくすぶる。
時間を経て、小さな火種から火が起きることもある。
そんなわけで、私はyoutubeでの朗読配信を始めた。
本職のアナウンサーのように確かな技術を持っているわけではないし、いまさら名を成そうというわけでもない。
ただ、「自分の声で作り上げたコンテンツをメディアで配信する」という形で、かつての自分の夢と折り合いをつけようとしているのである。
不完全燃焼のものを、歪曲した形ではあるが、ちゃんと燃やして始末しておこうと思う。
アナウンサーには、なれなかったよ。
だけど時代が、その代わりになるものをくれた。
そんなわけで私は、とりあえず幸せである。



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