とうめいにんげん!

1.

人は、たったひとつの失敗で面白いように坂道を転げ落ちてしまう。そして、一度落ちる元の場所に戻るのは難しい。

人生が分かれ道のある一本の道だとすると、俺はどこで道の選択を間違ったのだろう。


一番記憶に新しい"分かれ道"は仕事のミスだ。取引先を怒らせたせいで会社に多大な損害を出してしまった。労働者の保護が声高に叫ばれる今日、会社もおいそれとクビも切れなかったのだろう、仕事は失わずに済んだ。代わりにいないものとして扱われているが。

まあ、この不況だと転職もままならかっただろう。この状況を嬉しくは思わないが、家族を養う為に仕方なく享受している。

その家族といっても、夫婦仲はお世辞にもよいとは言えなかった。毎日帰宅しても食事の用意すらされていない。

こんなはずでは、と思うのはもう諦めた。仕事でも家庭でもうだつの上がらない男、それが俺なのだ。

それにしても今日は最悪だ。人身事故で電車は動かず遅刻は確定だ。普段以上の満員電車に苦しめられる事になった。

最近は特に人身事故が多い気がする。俺のように世間に絶望した人間のなんと多いことよ。最も、俺は自ら命を絶つ勇気も度胸も持ち合わせていないが…

我先にと乗り込む人々を押し分け、電車に乗り込む。あまりに詰め込むものだから、ドアが閉まらずきしんだ叫びをあげる。叫びたいのはこっちだよ、おんぼろ電車め。

ぎゅうぎゅうの電車がカーブに差し掛かり、詰め込まれた人の塊が左右に揺れる。くそ、足を踏まれた。前の奴だな。このやろう、謝れ、ふざけるな。怒りが喉まで出かかったが、前の男が強面だったから慌てて押し込む。俺は小心者なのだ。

現代の奴隷船からやっと解放されても休んでいる暇はない。いつもより足早に会社へ向かうと何か躓いた。小走りだった勢いそのまま派手に転んで鞄の中身が地面に散乱する。お前のせいだ、と後ろを確認するが何もない。くすくすと押さえられた笑い声がいらだちに燃料を注いでいくのをどうにか抑えながら鞄の中身をかき集めた。

長年の運動不足のせいだろう、今みたいに派手に転ぶことは少ないが、何もない所で躓く事が多くなった。恥ずかしさと、何かのせいにすることが出来ないのは大変いらだたしく思う。くそっ、と怒りと恥を地面に吐き捨てるのが精一杯だ。

普段いないものとして扱ってるくせに、遅刻はずいぶん怒られた。社会人としての自覚がないから始まり毎日の仕事ぶりまで説教は延焼した。毎日俺の事を見てなどいないくせに。

こんな毎日をあとどれだけ過ごせばいいのだろう。何もしていないのに罰を受けている気分になる。くそ、くそが。

仕事を終え、明かりも点いてない家に帰る。妻も子供ももう寝ているのだろう。今日も食事の用意はされていない。それどころか最後に家族とまともに顔を合わせたのがいつだったのかも思い出せない。俺が働いてるから飯が食えてるくせに。くそ、と吐き捨て安い缶チューハイを煽って床につく。

今日も、明日も、その先もこの繰り返し。

人生逆転の為に少ない小遣いで買った宝くじも当たった試しはない。宝くじが当たったら仕事を辞め、家族を捨ててやり直んだ。俺がいなくなって困ればいい。日々の辛さを陳腐な妄想で慰めるのが俺の日常になっていた───


気が付くと、目の前に老人が立っていた。

自分は神だと、願いを叶える為に現れたと老人は言う。俺は選ばれたのだと。

俺はくそ、と吐き捨てた。これは夢だ。明晰夢と言うやつか。いい夢は嫌いだ。目が覚めた時に落差に死にたくなるからだ。

神だという老人は俺に語りかける。願いは何がいいか。ひとつだけ叶えてあげよう。

願いだと。そんなもの真面目に答えたら起きたら惨めになるだけだ。夢まで俺をこけにして、ふざけるな。

俺は老人に強い言葉をぶつけていた。消えろ、俺の夢から出ていけ。強いものには勝てないが、弱いものには勝てるから。ここぞとばかりに日々のうっぷんを老人に当て擦っていたのだ。

それでも老人は消えない。願いを叶えると傷付いたCDのように繰り返している。どうやら夢にさえ馬鹿にされているようだ。畜生。

それなら願いを言ってやろうか。俺は透明人間になりたい。ただの透明人間じゃないぞ、俺は存在するが、俺の事をいなかった事にしたいんだ。どうだ。

老人は眉を潜めた。俺の他にも願いを叶えてきたが、最近透明人間になりたいと願う者が増えているという。知ったことか。神と言うなら叶えてみせろ、俺は老人に言ってやった。

本当にいいのか、と老人は言う。返事の代わりに床を踏み鳴らしてやった───


2.


腹立たしい夢は目覚まし時計が刈り取った。また今日が始まる。洗面所に向かうと娘が鏡の前に陣取っていた。どいてくれと言った所で無視されるだろう。諦めて食卓に向かい朝食の残りを流し込む。そのまま支度を済ませ安らげない家を後にした。

今日も駅はのBGMは身事故のアナウンスだった。被害者への可哀想と思う気持ちが苛立ちに代わったのは何時からだろう。今日は見越して早く出たから問題はない。電車を待つ列に潜り込む。俺の後に女子高生が並んだ。隣は空いているのに。そんなに中年の隣が嫌か、くそが。

満員電車を降りて会社に向かう。毎日最悪だが、今日は躓かなかった。それだけは幸運だった。

異変に気付いたのは帰り道だった。

近所の信号のない横断歩道を渡っていたら車が目の前を横切った。普通、歩行者がいたら減速するだろう。俺を轢いてもいいってか──ばかやろう殺す気か、と怒鳴り付けハッとした。やってしまった、周りの好奇の目に晒されるのはごめんだ。

しかし、誰も気にした風ではなかった。かなり大きな声で怒鳴ったはずなのに、皆知らない顔をしている。

異変は家に帰っても続いていた。珍しく妻と娘がリビングに居たので声をかけた。が、返事がなかったので怒鳴り付けた。しかし、それでも反応がないのだ。無視を決め込むというより、まるで俺が見えていないような。

普段から無視はされているものの、ここまでいないものとして扱われると腹が立つ。馬鹿にするにしてもやり口が気に入らない。俺は、ソファに腰掛け呑気に雑誌を読んでる妻の肩を後ろから小突いた。思ったより力が入っていたらしい。妻はソファから転げ落ちてしまった。娘の悲鳴が聞こえる。少しやりすぎた、と思ったが妻も娘も俺を見ずキョロキョロしている。まるで目に見えない何かに押されたとでも言いたいようだ。

そこまでして俺をコケにするのか、貴様らは。俺はますますかっとなって今度はソファを蹴飛ばした。妻と娘はポルターガイストだの霊だのわめきはじめた。いくらなんでも悪趣味だろう、父親に対してと怒鳴ったが聞こえているようには見えなかった。

嫌な予感がして俺は朝占拠されていた洗面所に向かい鏡の前に立つ。鏡の前はからっぽだった。俺は、今朝見た夢を思い出していた。

3.


あれから妻と娘の前で裸になってみたり、冷蔵庫を明け閉めしたり、他にも試してみた。

にわかに信じがたい事だが俺は透明人間になったらしい。それを確信する頃には妻も娘もすっかり怯えきっていた。それを見て俺はすっきりした。ざまあみろと。

次の日はいつも通り出社した。そして普段俺を無視する連中のパソコンにお茶をかけてやった。皆あわてふためいているがやはり俺を見ていない。本当に透明人間になったのだ。俺は昨日ネチネチ叱ってくれた課長の顔を思い切り張り飛ばした。気分がいい。

それならばこんな所にいてもしょうがない。俺は会社を飛び出し服を脱いだ。外はうだるような暑さだが、見えないのならいいだろう。自分を縛っていたスーツを脱ぎ捨て外を練り歩く。全てから解放された気分だ。

街を歩く美女に見せつけてもやった。勿論反応はないが、ずいぶん興奮した。透明にでもならなければ露出狂の気持ちはわからなかっただろう。俺は大笑いした。こんなに笑ったのは久しぶりだった。

次は女湯に入った。平日の朝ということもあり、期待していた世界とは違ったがそれも新鮮だった。

腹が減れば高級店の食事をつまみ、映画を観て、街を歩き、気に入らない顔があったら殴る。最高の気分だ。今まで妄想の中でしか出来なかった事が全て自分のものになっていた。神になった気分だ。

一通り楽しんだあとは自宅に帰る事にした。昼間からゴロゴロしても誰も文句は言わない。俺は自由だ。自由なのだ。

自宅でも妻と娘にいたずらした。目に見えないものに怯える様は滑稽で、すっとした。ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ!


これからはどうしようか、どこかの飛行機に乗り込んで世界中を旅するのも悪くないな、その前に会社から無断欠勤の連絡が着てあわてふためく姿も見たい。その時の顔を見るのも楽しみだ。今まで誰に守られていたかを思い知ればいい。

俺はかつてなく高揚した気持ちで床についたのだった。


4.

透明人間になって1週間。妻も娘も俺のいたずらには怯えはするものの、一番見たい顔はまだ見れていない。1週間の無断欠勤だぞ──俺は焦れて会社に向かった。1週間も出社してないならいい加減騒ぎになっているだろう。


俺の予想と違って会社はいつも通りだった。相変わらず俺のデスクははじっこにあり、どうやら会社にとっては俺が出社したかどうかすらどうでもよかったようだ。俺は少し落ち込み、その後部署全員の顔を張り飛ばしてやった。ふざけやがって。

イライラしながら会社を出る。あくせく歩くサラリーマンに足をかけてやった。サラリーマンは転びはしなかったが狼狽え、俺のいる場所を確認して首をかしげた。馬鹿め。そこには何もないんだ。お前は何もない所で躓いたんだ。苛立っていた心が少しだけ落ち着いた。

それから俺は駅のホームに向かった。帰宅ラッシュの時間帯、疲れた顔をした会社員どもが早く帰りたいと列を成している。疲れきった、つまらない顔、顔、顔。それを見て今まで抑えていた悪意がむくむくと大きくなるのを感じた。


俺はその列の先頭にいた男の肩を押した。

まだ電車が来る時間でもない、ちょっとしたいたずらのようなものだ。

男は簡単に、とても簡単に線路に落ちた。すぎ上がってくると思ったが、足を痛めたらしく線路から動けなくなっていた。

そうこうしているうちに電車が来て、ブレーキの音が鳴り響く。そして、


男の姿は電車に上書きされ、見えなくなった。


俺はその場から動くことが出来なかった。ただ、かん高い悲鳴が俺の鼓膜を揺さぶっていた。


5.

やってしまった、俺は、俺は、何て事を。人を殺してしまった。それも見ず知らずの人を。

浮かれていた頭が急激に冷える。俺はざわつくホームを走り抜け帰宅する。もうここにはいられない。いたくない。それに、こんなこと隠してはおけなかった。まずは家族に打ち明けて、それから自首しよう。もともとは小心者なのだ。殺人という巨悪を犯し平気な顔をして生活することは出来なかった。

ドアを乱暴に開け妻の帰りを待つ。時間にして一時間程度だったが、永遠のように感じていた。チクタクと鳴る針の音とばくばくなる鼓動だけが時間の流れを教えてくれていた。

ようやく帰宅した妻に懺悔する。俺は人を殺してしまった。すまない、すまないと。

しかし妻は気にした風でもなく料理の支度を始めた。おい、無視しないでくれ。大事なことなんだ、お願いだ、どうか──

声は妻の耳に触れる事はなく、虚空を震わせ 、そして消えた。はじめからなかったみたいに。

居てもたってもいられず家を飛び出し、今度は街で叫んだ。己の罪を。誰でもいい、誰か足を止めて聞いてくれと。

声が枯れてやっと気付いた。俺は透明人間なのだ。誰にも俺の声は届くことはなかった。

もうどうしようもなかった。あちこちをむちゃくちゃに走り、疲れはてて座り込んだ。これからどうすればいいのか。飯は食える、生きては行ける。でも、誰からも俺を見られない。聞かれない。

俺は知ってる限りのありったけの神に祈った。戻してくれ、罪は償うと。いい歳をした男がわんわん泣いたが、誰も気にすることはなかった。

ついには涙も枯れ、もう一歩も動けなくなっていた。


座り込んだ場所が横断歩道の上だと気付いたのは、目の前が車のナンバーでいっぱいになってからだった。

6.

俺、俺は──車に跳ねられた、らしい。らしいというのはその、痛くて、動けないからだ。身体が見えないからどうなってるのかもわからない。

俺を轢いた、と思う、運転手は車を停め、辺りを確認して首をかしげて走り去って行った。ここだ、俺はここだ──

ぬるりとしたものに触れている。出血している、ようだ。見えないからわからないが、あちこち折れているのはわかる。い、痛いから、痛いから。痛い、痛い、痛い──

もう視線を上げる事しか出来なくなっていたが、道行く人に助けを求める。誰か──

薄れ行く意識の中、誰かが俺に躓いた。派手に転び、鞄の中身をぶちまける。通行人は控えめな笑い声をあげ、転んだ男は顔を真っ赤にしながら俺を振り替える。


そして、そこに何もないとわかると、苛立ちと恥ずかしさをまぎらわせるように鞄に乱暴に荷物を入れ直すのだった──


7.

人生が分かれ道のあるひとつの道だとして、その道を間違えたらどうすればいいのか。


あれから俺は、同じように透明人間になった人に助けられて、何とか生きている。

俺は自分の姿は見えない。でも、同じ透明人間の姿は見える。それはどうやら相手も同じみたいで、そのおかげで俺は助かった。

そいつは俺が透明人間になってから、俺をずっと見ていたらしい。聞いた時は生きるか死ぬかでそれどころじゃなかったが、落ち着いてから考えると誰にも見られてないと思ってやっていた事が全てばれていたってことだ。それに気付いて俺はますますいたたまれなくなった。今度こそ消えてしまいたいとも。でも、俺はまだ生きている。生きたい。何故なら話を聞いてくれる相手がいるからだ。

俺がいなくなって1ヶ月、ようやく家族は俺に気が付いた。今は失踪扱いになっているはずだ。はずだ、なのはもう家族に会わす顔がないからだ。それに会っても、二度と家族とは意志疎通が出来ないのだ。透明人間だから、仕方ないよな。うん。

今俺は、通勤ラッシュの真っ只中、繁華街の駅のホームにいる。もちろん洋服を着てだ。誰に見られているかわからないからな。

今日も電車の遅延で駅全体が苛立ちに包まれている。到着した電車に乗り込もうと、我こそはと人々が押し掛けている。

電車が発車したら、すぐに列が出来る。俺はその列の先頭の男に目をやった。

全てがうまくいっていない顔をして、生気がない男は、線路と天を交互に仰いでいる。見るからに"ワケあり"だからか、誰もその男を見ようとはしない。

電車到着のアナウンスが響く。まだ電車が来ていないにも関わらず、男は前に一歩踏み出した。俺はその肩を───


俺は、その肩を押した。今度はホームの方に。


当然男は尻餅をつき、その間に電車は到着しドアが開く。男はキョロキョロと辺りを見回すが、首をかしげて電車に乗って行った。


これが今の俺の仕事だ。あの時奪ってしまった命への罪滅ぼし。もちろん、こんなことで赦されるとは思っていない。でも、自ら命を絶つ勇気も度胸もない。俺は小心者なのだ。


日々の食事だけはどうしようもないので他所から拝借しているが、あとはこうやって"仕事"をして過ごしている。

時には同じような仲間に声もかける。俺みたいにはなってほしくないからな。あの時はどうかしていた、本当に。


人は、ひとつの失敗で面白いように坂道を転げ落ちてしまう。そして、一度落ちると元の場所に戻るのは難しい。


この考えは今でも変わっていない。犯した過ちは消えない。でも、例え同じところに戻れなくても、登り続けるのを止めてはいけない。そこに新しいキャンプを作り、休み、また登る。登らなければ。そうすれば、今よりは少しだけいいところに行けるはずだ。

次の到着アナウンスが響く。仕事の合図だ。そうして俺はホームに目を凝らす──

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