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ランドマーク先行型まちづくりの危険性

私の住んでいる福島県南相馬市はもとより、近年そこかしこでずっと地方創生の旗印のもとに「まちづくり」の議論および政策がすすめられています。

この記事では個人的にアンチパターン(=よくない作法)だと考えている「ランドマーク先行型まちづくり」と私が読んでいるものについての自分の定義と、なぜそれが「危険」とするのかについてまとめています。

ランドマークとは?

ここでいうランドマークとは、建築物や構造物のような形質物として表現されたもの、伝統工芸や「相馬野馬追」「ねぶた祭」のように「文化財」として成立しているものなどと定義します。逆に地域の土地性や歴史など漠然として説明できないものを「コンテキスト」と呼んでいます。

心理学の用語で図と地とありますが、東京大学の窪田先生はこの図と地で例えていました。こちらのほうがわかりやすいかもしれません。図が私がランドマークと呼んでいるであり、地がコンテキストと呼んでいるものです。

・図は形はあるが、地には形がない。
・図と地の境界は、図の輪郭になる。地は輪郭を持たない。
・図は手前に出てきて、地は背後にあって広がりをもつ。
・図は実在感があるが、地は漠然としていて実態がつかみにくい
・図は表面があり抵抗があるように見えるが、地はそのようには見えずやわらかで空虚である。

ランドマーク先行型まちづくり

本題に戻ると、まちづくりの議論にありがちなのが、ランドマークを中心にした議論からはじまるケースです。「地域の伝統である〇〇祭を生かして交流人口を増やそう」とか「拠点となるコワーキングスペース | 複合施設 | 古民家カフェをつくって、エリアリノベーションしよう」みたいなやつ。まちづくりにかかわる人ならあるある過ぎるネタだと思います。

一見すると地域の資源を活用したよい議論の進め方に見えますが、個人的にはこういった考え方はアンチパターンであり、むしろ地域にもともとあった文化的な価値や住民の誇りや自立性を奪ってしまう可能性さえある、という意味で危険だと考えています。

ランドマークに着目するあまり、「なぜそれが定着したのか」の議論が置き去りにされる

この手の議論は、ランドマークとしての象形物に視点があたりすぎていて、「なぜそれがそこに存在するのか」という議論が置き去りにされていきます。例えば祭の大半は土着の信仰がベースになっており、その信仰のバックグラウンドには人々の生活があり、その人々の生活には地域それぞれの気候や土地といったものがあります。

逆に言うと、日本で行われている祭のほとんどは交流人口を呼び起こすためにつくられたものなどではなく、地域に観光向けの商店や小売店などがあるわけでもないのです。さらにいえば農業主体の地域には飲食店すら満足にないので、いくら観光産業にしようと声をあげたところで、それが根付く土台がそもそも成立しておらず、予算をつぎ込めばつぎ込むだけ湯水のように溶けていきます。

つまり、どのようにそれを成立させていくのかという戦略的な議論がないのにも関わらず、「地域の資源を活用している」という耳触りの良さを下支えに実行フェーズに移ってしまう危うさがあります。行政予算をつぎ込んでも一向に進んでいかず、なんとか結果らしきものを出すために広告代理店に高いお金を払って集客をしてもらう。しかしそのイベントが終わるとまた元通り・・・という悪循環に陥り、どんどん地域からお金が無くなっていきます。

なお、文化伝統への想いが強い人ほど、「文化が残っているのは誇りがあるから」という錯誤をしているように思いますが、個人的にはこの論理には違和感があります。事実として急速に産業構造と人々の生活が変わってきたなかで地域の伝統は維持継続の危機に直面しているのであり、それを誠実に受け止めなければ、地域の文化伝統といったものを残す議論は不可能です。

名前を挿げ替えても成立するポンチ絵の実現可能性

これは地域の自然資源を活用しよう、みたいなことにありがちなパターンです。地域にある自然の山や川や海を活用して、キャンプができるようにしよう、とかレジャースポットをつくろう。みたいなやつです。それが単体であるだけではなくて、包括的に地域全体で機能するようにしてあげれば、一体型のレジャーや産業になるではないですか!みたいな施策。これこそ地域に根差した資源を活用しようというものでなんだかよさそうに見えます。

しかし、よく考えてみてください。逆に日本で山も川も海もない自治体って存在しないのです。これらの資源というのは日本で生きるにあたっては少なくともこの100年を除いては必須のものであり、それらなくして人間生活が成立しなかったのですから、当たり前です。

あるいは、古民家をリノベしたカフェを中心に、若者が集まる店舗を増やして雇用と定住人口を増やそう、みたいなやつも同様です。こんな議論はどこでもやりつくされているのであって、それらの他地域やチェーン店と競合し、市場原理と戦っていかないといけないことは検討されていません。

これらのポンチ絵を描いたところで、一体全体だれがこの包括的な計画を他地域と競争可能なレベルで実現できるのかが重要なのですが、そういったことは、これらの議論において遡上に上りません。

要はこれらの議論というのは多くの地域が持ち得ているような資源をベースに議論されている上に、だれがどうして実現できるかも議論されていない。〇〇市の部分を他の自治体に変えたところで誰にも気づかれようなものが出来上がっていることにはやく気づくべきです。

こんな意味のない議論をするために、地方創生の20億がコンサル会社に支払われてしまったそうですが、とんだ茶番だと思います。

主語を大きくしすぎる

これらをうまく回避し、具体的な地域資源と人を中心に物事をすすめよう、ということにたどり着いた場合でも、難しさが残ります。

仮に計画が、十分な地域資源や人の考慮をベースに仕組まれていたところで、「〇〇といった文化財や地域の資源を背景に自分たちは活動しているのだから、これは地域利益に資する活動である」という錦の御旗を得てしまうことで、問題が起きやすくなります。

この御旗は、「俺たちはこの地域のためにやっている」というエゴを増長し、地域の中で静かに暮らし、歴史をつむいできた人たち意見を無視することにつながります。また、お金の流れが不自然に集中することにより、同じように努力してきたにもかかわらず選ばれなかった人たちの不公平感を増大させていきます。私もその歪みに囚われかけた(今もとらわれそうになっているかもしれません)一人でもあります。

地域とは連続性と多重性をもった有機的なもの

振り返ると、そもそも「(今市場において活用されていない)地域資源にフォーカスし、(実現可能性が考慮されない)プランを立てて実行する」というのがそもそも根源的に誤りです。こんなことに無理やりお金をつけて回そうとするから、結果もでないし、地域に歪みと無責任と他者への呪いが生み出され続けていくのです。

地域とは連続的で、多重性のあるものです。今表出しているものが起きているのはそれをポンとつくって出したからではないし、地域の有名な産品があったとしてもそれがただ一人の努力で成立などしえないものです。「ランドマーク」というのは結果的にそうなったものでしかなく、それを単一的にみて作り出そう、活用しようという働きそのものが、その存在に反しているようにも見えます。

合意形成が可能な小さな単位の自治

これらの前提を振り返ったときに、そもそも合意形成が不可能な単位でどうこうしようとするのは、こういった「地域資源」の文脈においては不適切であると考えています。

個人や個人組織、住民自治の範囲で、合意形成可能な単位の活動を行い、その創意工夫の積み重ねが小さな結果になる。それが少しずつ大きな流れとなって地域の何かに表出していく。そういう流れをつくっていくことこそが、重要なのではないかと考えています。

誰のためのまちづくりと地域おこし?

地域の人たちの営みを無視して、その場所に全く別のに何かがあり発展している姿がありえたとして、「それは本当に地域おこし」なのか、という疑問が残ります。そもそもまちづくりはなんのためにやるべきことなのでしょうか?地域の人たちがそこで営み・豊かに暮らすためにまちづくりをするはずが、いつのまにか手段と目的が入れ替わってしまっていないでしょうか?

個人的には、仮に地域おこしなんていうのものが存在するとするならば、それは地域の人たちを励まし、新しい刺激を呼び起こし、合意形成とと組織的成長を支援する、以外の手法がないようにも感じています。どれだけ物質的に豊かになったとしても、誰かの手によってつくられた責任も愛着もないものに囲まれた人生が本当に幸せなのかといえば、私には疑問しか残らないのです。

地域おこしやまちづくりドメインにいる人たちには、こうしたことに意識を向けてほしいな、と思っています。

#地方創生 #地域おこし #まちづくり #福島県 #図と地

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