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猪の腹子(胎児)を調理する

猪の腹子(胎児)をいただくという機会があった。どうなっているのだ。罠にかかった母猪の腹のなかにいた、産まれる前の赤ちゃん猪。捕れた猪の内蔵を処理するときに胎児も一緒に処分することが多いという。

この眼の前の胎児は最初から産まれていない(≒生きていない)わけですが、じっさいに目の前にならぶと、ひじょーーーにインパクトがあった。小さいとはいえ、形はしっかりと猪だし。未発達であるが毛が生えている個体もある。ひづめもある。へその緒もしっかり確認できます。柔らかい。しっかり重さがある。頭骨は固い。

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どのように「処理(あえてこう書く)」するのか?検索の仕方にもよるかもしれないけれど「猪 腹子 煮込み」とか「猪 腹子 調理法」つっても、出てこないわけです。まあそうか…。

譲ってくださった方から聞いた方法を頭の中でもう一度巡らせ、そして頭の中を整理。冷静になろう。同席している妻と話し合う。「猪の腹子」といえど、いまからぼくらは「お肉を下処理して、煮込む、調理する」ということをやるだけなのだ…。シンプルに考えろ。

大したことない、自分にもやれるはずだ。

…いや、とはいえ…。眼の前に横たわる小さい猪。ウリ坊のかわいさも知っている。そしてなにより、自分だって子どもを育てる親の立場でありますから、それはもう、自分の子供がこうなったら??など、想像してしまうわけです。それは親の立場でなくても同じように想像することは容易でしょう。



覚悟ができた。

内蔵を取り出し、首を切断して、煮込むぞっ!

はじめ、分からないのでとにかくやろうということで、肛門から喉元に向けてナイフの刃をすべらす。

お腹に溜まった血液が、思ったよりも出る。吸水シートが赤く染まった。いま、はじめから「生きていない」ものを切った時のこの血の量。先程まで生きていたものを切ったときはどれだけの血の量になるんだろう。まだ想像できない。

あとわかったことだが、ナイフで内蔵に傷が入ったかららしい。内蔵も、なんか肝臓とか心臓とかはまだいいとして、やはり腸を取り出す時のショッキングな感じはなんだろう。

血液で手元が見えづらい。流水で洗い流しながら作業することに…。

ひっぱったりしてもうまく内蔵を剥がせず、つながっている根本にナイフを入れて切り離す。

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首元にナイフを入れて、頭部を切断する。なんとも言えない気分。

この作業を4体分おこないました。

えー…

人というのは不思議なもので「慣れる」。

魚をさばくように、丸鶏を調理するように、猪の腹子も処理できる。

後半は、逆に喉元から肛門にかけて切れ目を入れ、まさに「腹を開く」。お尻側の方から腹の「内側」に指を入れて、内臓を掻き出す。内蔵が傷つかなければ血が溢れ出ることは殆ど無いようだ。

綺麗に処理できた。

鍋の中に、頭部も並んでいるのは結構衝撃。

下茹で。アクがすごく出る。

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匂いは、豚肉のそれと、やはり近い。下茹でが終わると、いよいよ「食材」感が全面に出てきた。

そして野菜と一緒に煮込み、圧力鍋で加熱。野菜と一緒に鍋にいるだけで、謎の安心感が漂う。

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美味しいスープになった!肉は大変柔らかく、とろけるようでした!ごちそうさまでした。

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グロいとか、命の尊さを知ったとか、かわいそうとか、泣けるとかっていう感じとまた違う、非常に得難い経験をしたように思う。別にそれらの感情がおかしいわけじゃないと思う。

この経験で「いただきます」の意味を知ったとかそういうことでもない。

「猪の赤ちゃんも眉毛があるんだなあ」って気づいた時、親近感が湧きそうになった。しかしその直後にその首を切り落とした。

鹿の脚から肉を「取る」経験のときは、一種の「楽しい」という感覚があった。ここでいう「楽しい」は、肉を切り裂き血を見ることが楽しいのではなく、効率よく余すところなく骨から肉を剥ぎ取るために、脚の筋肉の付き方の構造を知りたいとかそういう知識欲からくる「楽しい」ですね。

今回も「もっとよく知りたい」という欲は相変わらずあったように思う。でも鹿の脚の処理のときのような気軽な楽しさはない。はじめから死んでたものだが「生きている様子が想像しやすい」ものだからこそ、心になにか引っかかる。ましてや胎児。自分が小さい子供の親だからこその引っ掛かりなのだろうと思う。

「生きていたものの生命活動を自らの手で絶たせる行為」は未経験だ。(この数週間後に数回、鹿と猪まるまる一頭の止め刺しで身近に体験することになるが…)今回は腹子。胎児。はじめから死んでたものだったわけで、生命活動を断つ行為をだれかがしてくれたわけではないが…。

でも普通は「食材としての肉」がそこにあるのは、その行為を誰かがやってるわけだよなーと思う。今回僕らが感じたモヤモヤした気持ちよりもインパクトのある感じだろうと思う。

いい意味でこんな経験は自分にとってノイズだ。現代人は、猪の腹子を捌くなんてしなくても生きていける。しかし、今回のたったこれだけの経験でも、経験してよかったと心から思った。

なにが、よかったんだろう。

食材としての肉は、スーパーに行けば普通に売っている。スーパーに並ぶ前はどうなってるのか…?ぼくはよく知らない。知らないで普通に暮らせるものなあ。

牛や豚を屠殺場につれていく→???→食材としての肉→スーパーなどに陳列

この???の部分が擬似的な経験であるにしても「埋まった」ことがよかったのかもしれない。知識欲の問題かもしれない。

もしかしたら知らなかったほうが良かったこともあるかもだけど、それは少数で、おそらく、知らないことを知ることで解決できる問題はかなり増えると思う。

知らないよりは知りたい…。

最近はこういう気持ちがとても強いなあと思う。学生の時以来です。いいことだ。

この腹子の調理の後、夏の初めまでに、猟をされている方つながりで、かなりの数の解体を行うことになりました。丸々一頭の鹿と猪の屠殺とか。そのことについて書くこともあるかもしれない。


以下は、腹子を調理しているところの記録です。人によってはショッキングかと思うので、有料ページです。もしお金を払っていただけたら、次の解体に必要な道具類にあてたいです。

興味ある方はぜひ。

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