「恋/星野源」と私の夫婦像

「逃げ恥」が再放送されたようだ。今回は見逃してしまったけれど、放送当時は私もドラマに夢中になった一人だった。

小賢しくたって、ただただかわいい新垣結衣とか、年を重ねていることを蔑む若手にゆりちゃんが放つ「自分に呪いをかけないで」の名言とか、私も好きなドラマではあったのだけど、このドラマを見て思ったのはムズキュンじゃなくて「お互いがお互いの良さを深く知った結果、当初の契約内容のまま成功するパターンも見たいな…」ということ。恋愛ものというか男女のバディものみたいな感じのパターン。

少女漫画でよくある設定で「女除けのためにつきあってくれと言ってくるイケメン幼馴染」とか、「縁談がめんどくさいから偽装結婚してくれと言ってくる名家の跡取り」とかがあるけど、大体主人公の女の子と恋愛に発展していくことが多い。物語としては男女の関係ってものは恋人にならなきゃ盛り上がらないのかな。

多くの夫婦は年月が経つと恋愛とか恋人というものより、お互いを認め合うパートナーとか同士みたいなものに近くなるように見える。

一番身近な夫婦である自分の両親だって、いわゆるイチャイチャしたカップルみたいな様子はないし、「幸せな家族を作るという目的を互いに共有したパートナー」という言い方の方が近い気がする。

それならば夫婦というものは恋愛関係からではなくて、同士としていきなり始まったっていいんじゃないかと思ってしまう。
体の関係がなくたって、互いが互いを尊敬していれば良いのではないか。見つめあう二人じゃなくて、同じ目標を見つめる二人で夫婦になったっていいじゃないか。ゆくゆくそういう関係になるなら、恋愛なんて回り道しなくても問題ないのに。

なんて言いつつ、尊敬する人は一人に絞れないから1対1の婚姻関係との整合性はとれないし、恋をしてしまうことは人間として制御できないことで、恋をすればその人と添い遂げたいと思うことは自然な流れだとも思う。
ていうか、そもそも自分でも何を言っているのかわからないところもある。

だから「逃げ恥」において平匡さんとみくるが恋をすることなく契約結婚をやり遂げてくれたら(もしくは失敗してくれたら)、この自分の中の整理のつかない部分が落ち着く気がしていた。

たぶん、こんなめんどくさいことを考えるのは、私が恋愛と結婚(というか家族)というものを別物だと思ってしまっているからだと思う。

私は自分を女性だと認識していて、恋愛対象は男性である。
一方、「夫婦」でイメージするものは、何でも打ち明けられて、何かあった時にはお互い頼りあって、寂しい時は抱きしめあって、子どもを育てて…と考えると結婚相手は男性でなくてもいい。
むしろ私には男兄弟がいなくて友達は女性が多いから、近くにいるのは女性の方が落ち着くし、むしろ女性の方が良い気もしてきた。

キスや性交を女性とする気には全くならないけれど、別にそんなものは夫婦や家族には求めていないし、私に取っちゃそんなものはできればいいけどできなくてもね、みたいなもの。

とても尊敬できる素敵な女性が現れて、その人の将来を見ていきたいと思えたら、一緒に暮らして、「おかえり」「ただいま」を言い合って、つらい時には抱きしめあって生きていくのもいいと思う。子どもがいたっていい。「うちはママがふたりだ」とか言って。

親友と同棲でいいのではと言われそうだけど、これは違う。相手が男性と遊んだっていいけど、私は誰かに「あなたが一番」と選ばれたい。だから結婚をしたい。財産だって、医療における権利だって認められたい。

これは私がモテなさすぎて拗らせてしまった故の思考なのだろうか…。
恋愛というものがめんどうだから、その過程をすっとばして性別関係なく人生の相棒がほしい。


逃げ恥の主題歌になった星野源の「恋」はあらゆる形の「恋」を歌ったラブソングらしい。それを私は同姓や異性・セックスとジェンダーの問題とかを指しているとずっと思っていた。
たぶん「夫婦を超えてゆけ」のフレーズから一般的な意味の「恋愛」をイメージしたからだと思う。だからLGBTの問題に悩んでいる人をもポップに含有したことが素晴らしい曲だと思っていた。

ところが、何かのインタビューで星野源本人がこの「恋」というのは虚構を愛して人生が充実している人も含んでいるのだと話していた。(出典は忘れてしまった。記憶違いだったら申し訳ない)

なるほど。私が思っていたよりずっと広い意味での「恋」だった。
だとしたら「夫婦を超えてゆけ」ってすごいことフレーズじゃないかと改めて思う。
年の差とか性別の問題のそれだけじゃなくて、似た顔や虚構に対して愛情が芽生えることも「恋」であると定義するならば、「一人」とか「二人」といった見えない概念に息苦しさを感じていた人は救われる。

この「恋」という曲が大ヒットしたっていうのはいい時代だと思う。
もうその人が満たされて充実しているならそれも「恋」といえて、だとすれば恋の先にある夫婦というものだって固定概念から解放されるべきなのだ。

で、先述の通りおひとり様を拗らせて夫婦の概念がわからなくなる次元に迷い込んだ私も、この「夫婦を超えてゆけ」のフレーズに輝きを感じた一人。ラブソングにある種の苦しさを感じていた私もこの曲ならば仲間にいれてもらえたのだ。

別に俗にいう恋愛を経ない夫婦が市民権を得てほしいってい言いたいわけじゃない。
ただ、時代と共に夫婦の概念も変わっていくと思ったら、自分の未来の選択肢も増えて何だかちょっとわくわくするよね…という話なのです。



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