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ピノキオピーを聴いて「くらう」若者たち

 こんなツイートを見た。

 ピノキオピーを聴いて「くらう」人間がいる。より正確に言えば、ピノキオピー的な世界観に熱狂している人たち、と言えるかもしれない。彼らのそれは、単にカゲロウプロジェクトやヨルシカの「世界観」に没入していることを意味しない。そういった最近流行りのストーリーテリングな「世界観」ではなく、より原義に近い意味としての世界観だ。

せかい‐かん【世界観】‥クワン (Weltanschauung ドイツ)世界を全体として意味づける見方。人生観よりも包括的。単なる知的把握にとどまらず、より直接的な情意的評価を含む。楽天主義・厭世主義・宿命論・宗教的世界観・道徳的世界観などの立場がある。

広辞苑

 少しわかりにくいので簡単に言い表すならば、ピノキオピーの見ているモノの見方、世界の見方に共感を覚えている人たちのことだ。彼らは一様に、彼の厭世的で批評的なリリックの数々を「パンチライン」として褒めそやし、自分たちの代弁者として崇め奉る。上のツイートもそうだし、『神っぽいな』が流行ったときも腐るほど見た。

愛のネタバレ 「別れ」っぽいな

人生のネタバレ 「死ぬ」っぽいな

なにそれ意味深でかっこいいじゃん…

それっぽい単語集で踊ってんだ 失敬

神っぽいな/ピノキオピー

 彼のリリックは基本的に厭世、冷笑、人文学的素養の三本柱で成り立っており、それらが彼の魅力となっている。上の歌詞を見れば分かりやすいだろう。最初に彼は、愛や人生に必ずつきものの終わりを「ネタバレ」と表現する。これは極めて屈折した厭世である。これまでのポップソングでは、避けがたい別れを如何にして美しく描くか、そうでないのならば如何に女々しく別れを拒否するかの2つだった。

左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる

僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも

さよならなんて云えないよ/小沢健二

「ねえ、もう一度だけ」


を何回もやろう、そういう運命をしよう


愛を伝えそびれた


でもたしかに恋をしていた


恋をしていた

恋人ごっこ/マカロニえんぴつ

 しかし、ピノキオピーの世界観にはそういったセンチメンタリズムは一切ない。そこにあるのはただ空漠とした現実である。終わりに対する余りにも冷め切った視線が「ネタバレ」という余りにもチープな言葉で表現されている。こういった暴露的な言葉を、僕たちはさまざまな場所で見聞きしているだろう。いわく「親ガチャ」、「チー牛」、「弱者男性」、「性的搾取」。こういった言葉は、今まで当たり前のように存在しある種のセンチメンタリズムを持って語られてすらいた「運命」や「オタク」、「恋愛」という言葉の空虚さや暴力性を、チープで汚らしい言葉によってことさら暴き立て、相対化しようとする試みと言える。更に上で引用した、「壮大な内輪ノリを歴史と呼ぶ」もそうだ。学歴、教養文化、所属コミュニティなどは言ってしまえば全て内輪ノリであり、その積み重ねが歴史ならば、歴史が「内輪ノリ」であるのも当然だ。「歴史」という言葉が孕んでいたペーソスやセンチメンタリズム、美しさを全て引っ剥がし、「同じことの繰り返し」で「結末が定まっている」内輪ノリをなぜ続けるんだ?という空虚な問いを投げかける。ピノキオピーの世界観は単に厭世的であるだけではない。全てを反復と終わりの結末が定まった虚(うつろ)としたうえで、その内実の醜さを、安っぽい単純化によってことさら暴き立てようとする屈折を孕んでいるのだ。そしてそれを、現代という時代にあって確信犯的に行なっているのが、彼が支持を受ける理由の一つ目なのだろう。

 愛と人生の「ネタバレ」を語ったそのつぎ、彼はそうしたフレーズを「なにそれ意味深でかっこいいじゃん…」という冷笑的な呼応によって中和する。これには二つの効果がある。一つは当然ながら、厭世が行きすぎてある種厨二病的にすらなりかけていた世界観を「引き戻す」効果。自己言及によって「痛さ」を薄めようということだ。そしてもう一つには、無限の注釈の入れ子構造に聴き手を押し込め、世界観に「厚み」を持たせる効果だ。よくよく考えると、自己言及的な歌詞をわざわざ(自覚的に)書き入れて、それを発表するということ自体、自己言及によって発言の責任を一定程度放棄しようとするような「構造」そのものに対する皮肉を含んでいると言える。一段階目の屈折した厭世、それを自己言及的に冷笑する二段階目の屈折、そしてさらにそうした構造を曲という形で折り込んだ三段階目の屈折、といった具合だ。冷笑的な視線が難しいのは、冷笑する主体そのものが滑稽であり、冷笑の対象となり得ることだ。半端な冷笑は最終的に発言者にその責が帰着する点で、世界観に深みを与えるどころか極めてチープな代物と成りかねない。これにはいくつかの解決策があり、例えば発言主体の権威性を高めるのが手っ取り早いだろうが、ピノキオピーの場合は「ボーカロイド」に歌わせることでそれを為した。ボーカロイドは機械である以上、世界観を「歌う」ことはあっても世界観を「唄う」ことはなく、よって責任も取り得ない。ボーカロイドという中心の空虚に仮託することで、責任主体を見失った批評は宙に浮いて、無限の入れ子構造の中に取り込まれる。無頼なようでいて極めて平凡な日本人的心性にも感じられるが、それが彼の世界観に宿る「厚み」の根源であり、理由の二つ目と言える。

 そしてそれらは、ある程度の人文的素養に裏打ちされる。

ポストトゥルースの甘いディープキス エロく歪んでるラブアンドピース

自己中の光線銃 乱射する 強者のナンセンス

オートクチュールで作る 殺しのライセンス

分断を生んじゃった椅子取りゲーム 無痛分娩で授かるベイブ

壮大な内輪ノリを歴史と呼ぶ

ノンブレス・オブリージュ/ピノキオピー

 ポストトゥルースはご存知のとおりトランプ以降官制的な「真実」が崩壊したさまのことを指すが、これを引用しながら歴史そのものの空虚さに結びつけるリリックの構造がニクい。社会においてマトモな地位を占めるための狂騒を「椅子取りゲーム」と表現するのは、andymoriの引用と考えられる。おそらくトランプ当選やブレグジットを指すであろう「分断」を、名曲の歌詞からおしゃれに引用しながらさらりと寓喩で流す。歌詞に詰まった情報量の多さは作詞者の「頭のよさ」を示唆し、神秘性を高める材料となりうる。より詳しくいうならば、自分の知的教養をなんでもないかのように披露することで、元ネタが分からない人には「神秘性」を、分かる人には「共感」を提供することができるのだ。こうした意図的なオマージュや引用は、若く挑発的なミュージシャンたちによってフリッパーズギターの時代から風物詩のように見られた風景だが、彼もご多分の例に漏れない。これが、三つ目の理由になる。

 ピノキオピーはこれらの3つをある程度戦略的にやっており、彼の持つ特異な才能(世界に対して極限まで冷めた目線で見る力)も相まって、一部若者のカリスマとしての地位を確立した。彼のリリックは時代精神そのものと言っても過言ではなく、その言葉ひとつひとつが2020年代を象徴している。そしてそれに「くらって」しまっている若者たちの精神も、極めて2020年代的なのだろう。かくいう僕も、ピノキオピーはそこそこ好きである。


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