2024/08/27

土曜日、深夜0時に新宿集合という驚きの予定を告げられたがなんだか楽しそうじゃんと思い0時になるまでは家でdアニメなどを見たりして過ごし23時半頃に新宿行きの電車に片足でぴょんと乗り込む。普通なら反対の電車に乗っているような時間に新宿へ向かうこの慣れない感覚、同時に「俺はなんて自由なんだ」と心の中でなにかとても大きな「自由」という感覚の輪郭を触ったような気もする。

思えば俺は東京で一人暮らしを始めてからずっと自由であったが、自分が自由であるという感覚を得ていたのは深夜にコンビニに行って堅あげポテトを買い物カゴに突っ込む時や夜ごはん食べた後にもう一回夜ごはん食べちゃう時くらいなものでこんなものはまだ自由の序の口、0時に繁華街へ向かう電車に乗る、これこそ真の自由であり俺が今までそんなことはあり得ないと無意識的に封じていた行動だったのである。

同時に自由の輪郭を掴んだ途端、それがあまりに大きく自分には全容が測り知れないものだという漠然とした不安も感じた。俺は確かに自由だが同時に怖いくらいに自由である、という恐怖が自由には付き纏ってくる。何でもできるが自由が故にいつかそれが身に余り苦しむ時が来るのではないか。

ドイツの哲学者アクセル・ホネットの言うところの「自由であることの苦しみ」は、20代後半ゲイが口々に言いだす「そろそろ落ち着きたいな…」という言葉に集約されている気がする。自由自在に躍動したゲイ生活が落ち着き振り返ってみると、それはあまりに自由な自分の姿が映るのみでそれを見たゲイは(俺は一生このままなのか?)という言い様のない不安が残る。だからこそ他者に縛られる恋愛という不自由な状況に身を投じてみたくなるからこその「そろそろ落ち着きたいな…」という発言。ヘーゲルの「人間的欲望の本質は自由である」という法哲学に真っ向から批判をぶつけられるのは俺たちゲイなのかもしれない。

話は戻るが、0時に新宿に集合した俺はとりあえず飲みに行き、そこで初めて行く店もあったのだが2丁目から少し外れたところにある「BEAST」というお店が良かった。店内はガラス張りのダンスフロアにカウンター、少しのソファ席と完全に龍が如くでヤクザが仕切っている店として出てくる内観。これで背びれが鮮やかな赤色をしたピラニアの水槽があったらここは確実に組の抗争で爆破されていたのだがピラニアはいないのでなんとかなっている印象だった。そこで1杯だけ飲んだのだが気軽に話しかけてきた外国人(日本語ペラペラ)の方がいて、この方の顔が良い事良い事。ジェイク・ギレンホールかと思ったが、ジェイク・ギレンホールが日本の2丁目のゲイバーで飲んでいるはずがないので恐らく違うのだろうが恐らく若いころのジェイク・ギレンホールなのだろう。普通に店員だと思っていたのだが、話を聞いているとただの客なのだそう。店員ならシコっていたので危なかった。平穏にお互いいつかシコりあえたらいいですね、と上品な言葉をかけてから退店。オシャレすぎて一人では行けないが、またいつか行きたいと思えた。今度はガラス張りのダンスホールで勃起しながら歌いたい。

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