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そよ風ニモマケズ / 地方と自己肯定感

さっきまでずーっとAmazonをのぞいていた。レンズでも買おうかと思って。

7年前くらいに買ったNikonのD3200のレンズキット。ライターとしての仕事に踏み出したばかりのときに手に入れた一機。4年程前からはもうまともにライティングをしなくなって埃をかぶっていたのを、1年半前くらいに引っ張り出してみると、謎のレンズ破損があった。それ以来、レンズを外され、さらしものにされたボディがもの寂しげにテーブルの上に座り込んでいる風景が我が家にできた。

それが今日ふと日本人さながらの”もったいない”精神が働いたのか、レンズだけ再購入して、放置プレイをやめようか、と思いついた。それから、Amazonであれこれ検索&レビューチェックをしていた。

とりあえず、使えるようになればいい、撮れれば。で、生活の中での一眼レフの撮り癖を定着させる、矯正ギブスのように機能してくれればそれでいいのだ。10000も掛からないサードパーティのレンズにつばをつけている最中だ。どうなるかは、また明日以降考えよう。

さてさて、プレイバックマイノーーーーツ。過去noteの振り返りをしよう。

2019.08.11

バカなクソガキだったボクは、堂々の第1位を否定され、作品については何も触れられてないくせに、鼻をへし折られた気分になり、その日以降、漫画らしきものを描かなくなっていた。小さき者のハートってのは脆く、繊細なもんだ。そよ風ほどの風圧で、その火はたやすく消える。と今なら、強い実感のもとに言える。

今日、ひさひざにオンライン雑談をした人がいて、そのときに、「地方」と「自己肯定感」がどう関連するか、みたいな話になった。

狭い地域のなかで良しとされている選択肢、数が少ないリアリティの薄い選択肢のなかから自分がはじかれる瞬間があると、人は、自信や、自己の評価軸を失いやすく、自身をやさしく留めてくれるはずの受け皿を壊しがちだ。特に、子どもなんかはすぐに周りの大人に振り回されちゃうもんだから。

自分は○○ができない人間なんだ、○○ができるのは選ばれた人だけなんだ、という不思議な選民思想に憑りつかれて、踏ん張りのない諦めを多産するようになる。

(もちろん、都市部にもある現象だとしても、地方のほうが多いような印象を受けるし、あくまで傾向比率の問題として。この肌感覚ってのね、もう地方で中流海流以下で暮らした、あるいはそういう人が周りにいたかどうか、認識できていたかどうかの経験はだいぶ大きいはず)

そういう人が自信をどのように取り戻し、自己肯定感を高めていくのか。あるいは、ただただ自信喪失のままくたばっていくのか。その差異はなんだろうな、思考から行動までの狭間にある人を変容させる何かってなんだろな、というのが、今も昔も変わらず関心なのだ。

[today's tweet]

年内最後のオンライン雑談。2時間近い話のなかで、メモを読み返してみると、地方⇔都会、生産⇔消費、資本主義⇔ポスト資本主義、完璧⇔欠陥、そして女性性⇔男性性、の基本的に対極する性質についての話ばかりで、そのバランスをいかにとるか、っていう近況事例報告がおもしろかった。よいお年を。
今日のハイライトは、女性側は男性性を学ぼうとするの多いのに、男性側が女性性を学ぼうとしないの多いのって不思議だよね、っていう話と、これまではその無意識下の抑圧的な構造を見落としていたことへの反省。

[today's song]


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