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楽譜はパクりか。

『カメラを止めるな』はまだ観ていない映画なので、細かいことは言えないけど、「パクり」についてちょっと話題になっているみたいだ。それに合わせて、今たまたま読んでいるホリエモン著の『なんでお店が儲からないのかを僕が解決する』で飲食業界におけるパクりについて触れていたこともあったので、バーにおけるパクリ問題について考えてみたい。

飲食業界では、映画などの作品と違って、著作権というものがない。だから、だれかが似たような料理を出していたとしても、「わたしが考案したんだ」という主張が出てきても法的にはなんら問題なく、著作権料が発生することもない。このことについて、ホリエモンは著で「進化はパクリの積み重ねです。」と言っている。もちろん、そこにモラルは必要だし、パクる側が敬意を持つことを前提だと付け加えて。

ぼくが思うのも、彼が言うように、「パクりはあってもいいんじゃないか」ということ。というか、カクテルにおいてはパクりばかりだ。モヒート、ジントニック、マティーニ、ネグローニ、マルガリータなど、全バーテンダーが基本的にはレシピをパクってお店で提供しているのだ。

もちろん、完全にパクるわけでもなく、ジントニック一つをとっても店ごとにちょっとしたアレンジを利かせるときもある。また、レシピはパクれど、そのカクテルをだれがつくったかは勉強し、お客さんに伝えることも。たとえば、最古と言われるカクテル「サゼラック」は「1959年にニューオーリンズのサゼラック・コーヒー・ハウスでジョン・シラーが命名した」とされていて、引用してねと言われてなくてもバーテンダーは口にする。それは記憶や物語を大切にする職業であるからだろう。よく「世界中のバーテンダーは、一つのギルドのなかにいる」ということを言われるが、仲間内でレシピを共有しているような感覚なのかもしれない。

そして、そのレシピの公開について思うのが、海外に比べると、日本は少し閉じている気がして、料亭みたく「門外不出のレシピ」と口にする人も少なからずいる。が、それはぼくがお店勤めだった7~8年前のときの雑感であり、今はその風潮がいくらか緩和されているようだ。

(まだまだ遅れているとは思うが)ITによる情報流通が大きく変わったこともあれば、バーテンダーの技術と誇りがあるからこそだとも言える。「カクテル(レシピ)は、楽譜に似ている」。楽譜があっても演奏者の力量によって奏が変わるように、レシピがあってもその味わいは自分じゃなきゃ出せない、という考えが根底にはある。つまり、「レシピと、それをかたちにするバーテンダーの自分があってはじめて作品は完成する」わけだから、レシピだけパクられようが問題ないということだ。

だから実際のところは、パクリのようでパクリではない。であれば、もっとレシピは公開すりゃいいのになーと思うことは多々ある。レシピは国内外のどこへでも持ち運びができるし、持っていた先の食材や技術を組み合わせて進化していく可能性もある(てか、カレーとかラーメンとかって元々そうだったんじゃないの、とか思いつつ)。

そういう意味では、レシピだけの下積みであれば、ホリエモンの寿司職人が何年も修行するのはバカ」という発言もわからなくない。もちろん、下積みで得られるものは、それだけじゃないから当事者としてはバッサリとは切り捨てらない問題ではあるけど。

まあ、最初の「パクり」の話に戻ると、飲食のなかでもバー業界について言えば、もっとパクり合えばいいじゃないのと思うわけ。あ、ことばを変えるとすれば「パクる」じゃなくて「真似る」なのかも。「学ぶ」ってことばは元々「真似ぶ」からきてみたいだし、時代もお客さんもどんどん変化していくなかで、みんな学びを止めるのはもったいないしね。


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