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「困った」「やりたい」に潜むリスク

ネガティブな「田舎だから」よりかは、ポジティブな「田舎だからこそ」。

まだどしどし到着するブラックフライデーの名残たち。さまざまなサイズの段ボールから出てくるアイテムの開封の儀をはじめ、不良品が当たってないことを祈りながら、性能をチェックする日々が続いている。

都会であれば当たり前のように普及してるもの、都会であってもごく一部の人しかまだ使ってなさそうなもの、いろいろあるだろうけど、とにかくテクノロジーを感じるガジェットは大好きだ。

田舎に住んでると「何、それ?」となりやすいものであっても、むしろ田舎だからこそ重宝するようなものが多い。けど、そういう便利なものこそこんな奥地までリーチしていない。”テレビ”というメディアに乗っかり、1~3年経ってやっと普及するくらいが田舎のスピード感なんじゃないかと思える。

田舎だから「最新テクノロジーが間に合ってません」ではなく、田舎というフィールドだからこそ一早く採り入れてますっていう状況が好ましいし、本来のイノベーションというは辺境から起こるともいう。

「アメリカは、もちろん都市部もあるけど、基本的には、一つの家と家が遠くて、田舎みたいなところで当たり前で、言っちゃあ、不便、不便すぎる国。だけど、不便だからこそテクノロジーを使って便利にしようぜ、っていうノリがあって、新しい市場が生まれやすいみたいで」

また思うが、高齢者の割合が多い田舎ほど、”ポンコツ”化した人も多いわけなので、テクノロジーをもっと頼るといいはずなのだ。「新しいことはわからん」と拒絶したがるけれども、迎え入れたほうが恩恵を受けることもあるだろう。

まあそれも結局はテクノロジーというハードをどのように導入し定着させていくかは、人間と人間とのコミュケーションというソフトの部分があってこそ。地味でアナログで面倒くさいところを抜けた先に、”共存”の二文字が現れる。たとえスマホが普及していても、電話やメール機能以外を使えない人がわかさかいるのは、コミュニケーションの質か量に起因するのだと思う。

さて、前置きはここでまでで、中途半端に止めていたnoteの続きをば。

「同じ」なのに「違う」せいでディスコミュニケーション

先日、「馴染みのない、または、曖昧な意味の言葉は、のびのびとした発想や前向きな姿勢を削ぎとるリスクがある」ということを書き留めていた。

その続きになるが、基本的に、言葉のイメージ(意味)というのは、その人の経験から生み出されるもの。自分の経験の中で想像しうるものでしか、イメージを描くことはできない。

たとえば、「英語が話せる」のイメージも、人によって程度がびっくりするほど違うのは、そういうことだ。英語話者のちょっとした投げかけに反応できれば「話せる」と思う人もいれば、ビジネスにおいて専門用語を扱いながら交渉ができることが「話せる」と思う人もいる。

そうやって同じ言葉を扱うのに、違うイメージがある状態で話が進んでいくと良いコミュニケーション(ならびにアイデア)は生まれない。ここでいう「良い」とは「納得感がある」または「後からすれ違わない」である。

だからこそ、まずは前提として扱いたい言葉についての相手のイメージを探ることからはじめていく。ここを怠けると痛い目に合うのは言わずもがな自分である。

「困った」も「やりたい」もそうそう出ない

よく地域内でワークショップ的なものを行うときに「困っていること」「やりたいこと」を参加者から聞き出そうとする場がある。個人ワークでもグループワークでも自身が抱える「困った」と「やりたい」を文字にするか、口に出して共有し、そこから企画につなげようとすることが多い。

が、この「困った」や「やりたい」という言葉は、安易に扱える代物ではない。普段から自問自答をしたり、ノートに整理するタイプの人は、「困ってることは?」「やりたいことは?」と問われてもわりとスッと出るだろうが、そんな人はマイナーだろう。

言葉として抽象度が高過ぎると、思考が止まる。すると、結局「雪かきが困る」「バスが少なくて困る」「空き家がいっぱいで困る」などのように、ありきたりで、主語がだれなのかよくわからない回答が量産される。

それが悪いと言っているわけじゃないが、本当の意味で当人たちの「困った」に迫ることはできない。挙句の果てには、「困ったことは...ない!」ときっぱり言われてしまうことも(高齢者ほどその数が多い印象を受ける)。

もしかしたら、彼らからすれば、「困った」も「やりたい」も言葉として程度が強いのかもしれない。つまり、「困った!!!!!!!」「やりたい!!!!」と心から強く思ってないといけないものとして言葉の意味を理解しており、「いやぁそこまで言うほどのものが自分の中にないな」という処理をしてしまうのではないか。

「乾燥肌がつらい」も「空き家がいっぱい」も程度は違えど、同じ「困った」だろう。そのグラデーションを許し、ちょっとしたことを拾い上げられるように言葉を選び、場合によっては、新たな言葉を添えてあげることで縛られた脳を解き放つ瞬間を狙う。そんなコミュニケーションをしたい。

もっとも素直に「困った」や「やりたい」を考えちゃ、あるいは言葉にしちゃいけないと思う心理も少なからずあるようだ。こっちについてはまた引き続き書き留めておきたい。

とにかく、ぶっきらぼうに「困った」「やりたい」を投げつけても、相手は受けとってくれないし、その状態で「なんかあまりないみたいっすね」あるいは本音でもなく苦し紛れにでた回答を「これが企画につなげる根拠です」と言うことなんてできるわけもない。そんな不適切なワークショップは滅亡してしまえと思うのだ。

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