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足りなさが補うもの

  散歩中にハッとするときが多い。あれ、なんでだろうな。科学的立証はできない気もするけど、とにかく真剣に向き合ってはない、油断してるときほど突然やってくる何かがある。

「足りなさが、芸の魅力なのかもしれない」

 『たりないふたり』というタイトル通りのオードリー若林さんと南海キャンディーズ山里さんにはじまり、どこか足りなさを持っている人たちの表現力に驚かされ続けている。

 それを考えたのも、とある若手芸人の漫才がおもしろいのだけどグッとこないのはなんだろうという疑問が湧いたから。その答えが「足りなさのせい」だった。そのコンビの一人は御曹司(本人が公言しちゃってる)のようで身なりも顔もしっかりしてるし、相方のほうもわりも可もなく不可もなく卒なくボケているかんじ。なんだか右も左も足りないものがないようなスタイリッシュな雰囲気で話を進めいくから、ネタにも気持ちがこもっていないようにみえる。なんとなく、おもしろいこをするべく、演技をしよう、言葉遊びをしよう、としてるだけの人に見えてしまうのだ。

 おもしろい、と、グッとくる(感動する)は別次元のもの、のように思えるし、ちゃんと売れる人ってのは、後者の人を揺さぶる何かを必ず持っている。

剛「自分の魂じゃないのよね、言葉が。自分が言いたいことではないのよね。なんか借りてきて喋ってる感じがするから」

 物理的にでも精神的にでも、その足りなさが前向きにじみ出てる人間ってつよい。その足りなさ(ほんとうであれば、ダメで、不憫だったり、つらかったり、哀しいこともかもれないこと)を笑いという表現に変えてる人たちが、ある意味、本当の意味で芸人なのかもな、とハッとしたのだった。

 足りないことで、そのせいで生まれた(自)意識が、補ってくれる人間性ないし表現力もあるんだろうな。

 ちなみに、同じ御曹司でも三四郎の小宮さんについては、ビジュアルの足りなさ(当初は「歯」が足りなかった)や、意識の足りなさ(風邪ひきがちなどのだらしなさ)などがあって、その芸に魅力を感じてしまうのだろう。

 世の中はオールマイティで隙のないパーフェクトな人を理想の相手として挙げる人ばかりのように思うけど、実際そんなやつらはどこか面白みに欠けていて、落語に出てくるような足りなさだらけの与太郎のほうに僕らは魅了され、自分の足りなさに重ねながら、(学習にしろ発散にしろ応援にしろ)お金を払ってしまっているんだろうなー。


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